「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」【戦争と日本人(3)】

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 この7月、米国人建築家フランク・ロイド・ライト(1867-1959)設計の8件の建築物が、世界文化遺産に登録されることが決定した。今回指定を受けたのはすべて米国にある建造物だが、ライト設計の建造物は日本にもいくつか残っている。中でも有名なのが、東京・日比谷にあった帝国ホテル(愛知・明治村に移築)だろう。そしてちょうど100年前の大正8(1919)年、ライトの弟子として共に来日した人物が、アントニン・レーモンドだった。

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 その後18年にわたり日本で暮らしたレーモンドが残した建造物は、ライトと比べてかなり多い。代表的なところでは東京女子大学、聖心女子学院、聖路加国際病院、米国やフランス、ソ連の大使館などがある。モダンな鉄筋コンクリートの自宅を米国大使館の近くに構え、日本の漆工芸家、木版画家、宗匠などと交流し、書や茶など日本の芸事(げいごと)も積極的に学んでいたという。

 レーモンドが米国に戻ったのは1938(昭和13)年だった。友人と組み、ニューヨークで設計事務所を開いていた彼のもとに、「スタンダードオイル」社から仕事の依頼が入ったのは、43年初頭である。同社は「焼夷弾」の製造会社。第2次世界大戦が始まり、すでに1年あまりが経っていた。(以下、〈〉内引用は秋尾沙戸子氏『ワシントンハイツ─GHQが東京に刻んだ戦後─』より)。

正確な「日本家屋」を再現 畳、座布団も配置

〈日本の労働者が住む家屋を設計してほしい。3×6の畳と障子を用い、さらに屋根は瓦にしてほしい〉

 何とも奇妙な注文。が、それは空襲で使用する「焼夷弾」の燃焼実験のためだった。実際に日本の家屋を建築した上で焼夷弾を落とし、データを集め分析しようというのである。

 日本に長く滞在していたレーモンドは、当然、日本の建築物について精通していた。依頼を承諾したレーモンドの指示のもと、ユタ州の砂漠にあるダグウェイ試験場において日本の木造長屋の街並みが再現されていった。3カ月後、2階建ての3棟の木造住宅を4列、12棟の長屋が2組完成する。

〈(砂漠の中のまるで)モデルハウスのような家屋に、(1943年の)5月以降、繰り返し焼夷弾が落とされた。そして、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった〉

 それらの家屋は正確さが重視されていた。家屋の内部には畳が敷かれ、卓袱台(ちゃぶだい)、布団、座布団が配置されていた。箸や炭火鉢、洗い桶といった台所用品、さらには雨戸や物干し台も再現され、庇(ひさし)の下には欄干も取り付けられていた。爆撃実験は雨戸を開けた状態と閉めた状態(すなわち昼と夜の想定)の、その両方で行われた。

〈トタン屋根と瓦屋根の2種類を造り、建材もできるだけ日本のヒノキに近いものが使われた。(レーモンドの)自伝によるとそれは、ロッキー山脈の「シトカ産のスプルース」だという。また、漆喰の代用として壁材は南西アメリカで使われている「アドビ」という土壁を用いた〉

 実験に使用するほど大量の畳を、米国国内で生産するのは不可能だった。そのため、米国海軍が出動し、ハワイに暮らす日系人の家庭から掻き集めている。

 さらには〈日本と同じ装備の“消防団”までが組織され〉、鎮火実験も行っていたという。すぐに鎮火されたのでは、日本を火の海にできない。米国はこうした実験を繰り返すことによって、空襲の精度を上げていったのである。

 レーモンドは後に自伝でこう記している。

〈私と妻にとって、日本を負かす意味をもつ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効率的に敗北させることだという結論に達した〉

レーモンドの「もうひとつ別の顔」

 B29による空襲が本格化したのは、この翌年1944年11月からだった。終戦まで続いたこの無差別爆撃により、250以上の都市が被災。死亡者およそ33万人、負傷者43万人、被災戸数は233万戸と伝えられている。

 さて、そのレーモンドだが、建築家以外にもうひとつ別の顔があったと秋尾氏は指摘している。米国立公文書館別館に保存されている「レーモンドファイル」。それによるとレーモンドは、かつて米陸軍の諜報部に所属していたという。諜報を担う部署G2(参謀2部)から情報調整局大佐に宛てられた報告書には、こうあった。1942年5月の日付である。

〈レーモンドは次のように申告している。そのためなら、戦時中は喜んでいまのビジネスの成功を投げうって軍に戻ると。
 日本で、反国軍勢力軍との間に摩擦を大きくさせて内部崩壊を促すために、日本における彼のリベラルな知人たちとの接触を復活させる〉

 つまりレーモンド自ら、日本で反対分子を煽動して、国家転覆を図ることを軍に提案していたのだ。しかも報告書によれば、レーモンドは来日以前、すでにスイスにおいて、ドイツとオーストリアに米国のスパイ組織を作る活動をしていた。日本に18年滞在していたことについては先に紹介したが、その際には〈軍に対抗する日本人グループに多く接触していた〉と、報告書には記されていた。

 終戦から3年後の1948年、レーモンドは再び日本の地を踏んだ。灰燼に帰した東京で事務所を起こし、リーダーズダイジェスト東京支社のほか、離日までの25年間に教会や学校、個人宅など、ゆうに30を超える建築物の設計を精力的に行なった。
 それらの建築群は、レーモンドにとっての鎮魂の墓標だったのだろうか。

デイリー新潮編集部

2019年8月10日掲載

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