総理に仕えた「猛女」「ファースト・レディ」たちの鼻息…強い女たち列伝4

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ワンマン宰相・吉田茂の三女、「麻生和子詣で」

「ファースト・レディ」。言葉としては美しいが、現実のファースト・レディにうっとりする人は、そう多くはないだろう。そりゃあ、女は若いのに限る。しかし彼女たちだって、その昔は若く、一家の大黒柱を男にするために懸命の努力をしたのである。うっとりできるファースト・レディの登場は後世に待つことにして、権力と華やかさを楽しんだ女性たちの半生を振り返る。

(※「週刊新潮」2001年6月7日号に掲載されたものです。肩書や年齢は当時のまま使用しています)

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 戦後の一時期、政界では「和子詣で」ということが言われた。ワンマン宰相として知られた吉田茂に陳情をするには、吉田の三女であり、側近である麻生和子に話を通すのが一番早かったのである。

 昭和13年、「筑豊の石炭王」と呼ばれた麻生太賀吉と結婚し、福岡県飯塚市に移り住んだ都会派の和子にとって、そこで過ごした数年間は少々退屈な日々だったようだ。が、戦後になって吉田政権が誕生すると、彼女は急に忙しくなる。戦時中に病死した母・雪子に代わって、事実上のファースト・レディの役割を果たすことになったのである。

「スリムで最高にシック」

 そう評されたサンフランシスコ講和会議への列席は、和子の初の大舞台だったが、同時に「女帝」「淀君」「女太閤」と呼ばれ、恐れられるようにもなる。

 外交官だった父に従って海外を転々としたせいか、和子は物怖じしない娘に育った。そして、人の好き嫌いがはっきりしていた。

 昭和25年、最高裁長官に就任した田中耕太郎は「和子人事」によって、そのポストを手に入れたと囁かれた。

 新聞は、真野毅が本命と書き、小泉信三らの名前も挙げていた。が、ある時、記者たちとマージャンをして大負けした和子は、腹いせにこう言ったとされる。

「お返しに真野さんの長官をダメにしてやる」

鳩山一郎の妻で「鳩山家の女主人(あるじ)」といわれた

 そして、事実その通りになった。この人事を巡っては、新長官の妻が、和子と同じ聖心女学院の出身だったからだと尾ひれが付き、いかにもそれらしく賑やかに語られた。

 第2次吉田内閣で、ある代議士の入閣が流れたのも、第3次内閣で通産相が留任し損ねたのも、全ては和子のツルのひと声からだと噂された。

「あんな人、わたくしダメだと思いますわ」

 ともかくも、彼女がダメだと言えば、ダメになることが多かったのである。しかしながら、それで政界はうまくいっていたのだ、と当時を知る元記者は力説する。

「麻生和子の系譜には、庶民的なものは一切ない。曾祖父は明治の元勲大久保利通、祖父は宮内大臣を務めた牧野伸顕です。長男の太郎は衆院議員、三男は麻生セメント社長になり、長女は子爵家、次女は外交官に嫁ぎ、三女の信子は三笠宮妃です。吉田政権は、要するに日本最後の貴族政治だったのです。使命感に燃え、金にも困らない貴族が、ワンマンになるのは当然だし、政治とは本来そうあるべきものなのです。田原総一朗あたりが音頭を取る番組で精一杯名前を売り、タスキがけで頭を下げて回っている、そのへんの三流世襲議員とはわけが違う。いま必要なのは強力な貴族政治の再現ですよ」

 4代続けて国会議員が輩出した鳩山家。2代目に当たる元総理、鳩山一郎の妻で「鳩山家の女主人(あるじ)」といわれた薫――この人も貴族だ。

 東京・音羽の邸宅は、説明するのが難しいくらいバカでかい。戦時中、鳩山一郎が晴耕雨読の生活を続けた軽井沢の別荘の敷地は実に3000坪。米以外は敷地内で全て自給自足でまかなえたという。

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