総理に仕えた「猛女」「ファースト・レディ」たちの鼻息…強い女たち列伝4

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大使夫人の言葉を真に受けた彼女は、ヒザ上3センチのミニスカートを

 49年3月4日付の朝日新聞は、そんな見出しでこの顛末を報じている。

〈故国から離れルバング島に二十九年問いた小野田寛郎さんは、いろんな断片的知識を持っていた。横井庄一さんがグアム島で保護されたことや、佐藤栄作前首相が寛子夫人をなぐったエピソードも、「中野学校」出身の情報将校として、守備隊が全滅しても情報収集のため生き残ることを命ぜられていた小野田さんは、搜索隊が残した古新聞や雑誌から、これらの情報を知ったらしい〉

〈記事をみて、私、たいへんなショックでした。二十九年間も外界と遮断され、孤独に生きぬいてこられた、気の毒なかたの耳にまで、よりによって、こんな妙な話がとどいているなんて、こそばゆいような、テレくさいような、なんとも複雑な気持ちです〉(『佐藤寛子の宰相夫人秘録』)

 44年秋、亭主の訪米に同行することになった彼女は、どんな服装で行くべきかを駐米大使夫人に相談する。

「只今、アメリカはミニスカートが流行中です。上の格好はどうでも問題ありませんが、下はできるだけお短く……」

 大使夫人の言葉を真に受けた60過ぎの彼女は、ヒザ上3センチのミニスカートをはいて出かける。羽田を発つ時、飛行機のタラップから手を振ると、ミニはヒザ上5くらいに見えた。

〈「いい年をしてミニなんかはいて……」

 と、みなさんから悪評さくさくでした。いつになっても「ミニのおばさん」などといわれ、恥ずかしいやら、おかしいやら、まったく変な気持ちです。が、あのときは、沖縄返還のために、いくらかでも、あちらの印象をよくするなら……と、お国のためにがんばったつもりでした〉

 恐らく熱意だけは伝わったのだろう。沖縄はこの3年後に返還された。

 ざっくばらんで、愛すべきカンコさんのエピソードは数多い。佐藤寛子は、日本人が右肩上がりの明日を信じていた時代を象徴する、賑やかなファースト・レディだった。

財閥・森コンツェルン出の女総理

「佐藤寛子さんのワイフ・ビーター事件のことはご存じだと思いますが、三木先生のお宅ではどうですか」

 ある記者が三木睦子にそう水を向けた。と、何を勘違いしたのか、睦子はこう答えた。

「うちにはありませんよ。だってあんな弱々しそうな人は可哀相で殴れません」

 三木睦子は昭和電工の創業者で、戦前の財閥である森コンツェルンの総帥・矗昶(のぶてる)の次女である。その矗昶も、睦子が幼い頃は代議士だった。

「お嬢ちゃん、あなた大きくなったら何になるの? 政治家の奥さんかな」

 父親が当選した時、取材に訪れた記者に訊ねられた睦子は、こう答えた。

「政治家の奥さんなんかにならないわよ。政治家にはなってもいいけどね」

 大財閥の娘である睦子は、三木と結婚して初めて貧乏の何たるかを知り、愕然とする。とはいえ、借金取りが来ても泰然としていた。そんな借金など、いちいち払う気はなかったのである。

〈どういわれても、払えないものは払えない。私は毎日毎日、現金がなければ暮らせない生活に、ただびっくりしてしまっていたのです。(中略)そのうちだんだん図々しくなって、「借金取りが来た、来た」と大声をあげると、掛け取りのほうが恥ずかしくなって、「奥さん、あまりみっともないことをいわないでください」といって退散したものです〉(『信なくば立たず夫・三木武夫との五十年』)

 この本は、見出しを見ただけでも圧巻である。

「吉田茂という男を見抜く」

「汚職隠しだった保守合同」

「政治は数ではない」

「“徳島戦争”の真相はこうだ」

 まるで首相その人が書いているような本なのだ。「鳩山薫と三木睦子の二人は正に女丈夫であり、その双璧と言っていい。彼女たちがいなかったら、ダンナはまず総理大臣になれなかった。三木睦子がオチンチンを付けていたら三木よりも早く総理になっていた。といわれたほどです」(小林吉弥)

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