「横田めぐみさん拉致」を滋さん夫婦に伝えた日

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 情報は韓国に亡命した北朝鮮工作員からもたらされた。そこでは不明だった拉致被害少女の名前が、1年半後に「横田めぐみ」とわかる。まだ北朝鮮による拉致が疑問視されていた時代、少女の悲劇を突き止めた一人のジャーナリストは、横田滋さんの家に向かった。

 ***

 1997年1月23日、私は川崎市にある横田滋さん・早紀江さん夫妻の自宅を訪ね、忽然と姿を消した娘さんが北朝鮮に拉致され平壌で暮らしていると告げた。夫妻にとって、20年ぶりの生存の知らせだった。テレビのニュース番組で報じる11日前のことである。この少し前に、横田めぐみさん拉致の事実を突き止めたのだが、その時点では警察庁、外務省など、日本政府すら把握していなかった。

 夫妻は食い入るように私を見つめ、時にブルッと体を震わせ、一言も逃すまいとしていた。滋さんは目に涙をため、早紀江さんは何度も唇を噛みしめていた。

 私が北朝鮮の拉致問題に関わり、後にめぐみさん拉致を突き止めた、そもそものキッカケは91年に遡る。当時、フランスの商業用探査衛星が撮った写真をアメリカ情報機関が解析し、初めて北朝鮮が核開発をしている疑惑が浮上していた。

 それを知る、北朝鮮から韓国に亡命した官僚にインタビューすることができた。取材終了後、官僚を保護している韓国の情報機関、国家安全企画部(現・国情院)の幹部と会食した席でこう言われたのだ。

「日本で生まれ、その後北朝鮮へ渡った在日朝鮮人の一人がやはり亡命して我々の手の中にある。この人に会ってみませんか?」

 北朝鮮帰還事業による帰国者だった。59年の第1船を皮切りに北朝鮮へ永住のため渡った在日朝鮮人と日本人妻(夫)は9万3千人余に上る。当時の私は、その知識とてなく、ぼんやりと頭をよぎったのは吉永小百合さんが出演して有名になった映画「キューポラのある街」だった。映画には、「地上の楽園」と宣伝され、北朝鮮へ渡っていく希望に燃えた在日朝鮮人たちの姿があった。

 その亡命帰国者・金秀幸(キムスヘン)さんの口から出た一言が胸に突き刺さった。彼は、帰国者のうち数千人が政治犯収容所へ入れられるなどして行方不明になっていると言い切ったのだ。

 一連の取材で、帰国者の兄をスパイ容疑で銃殺刑にされた朴春仙(パクチュンソン)という女性と知り合った。彼女の口から、拉致工作員、辛光洙(シングァンス)の名前が出た。94年夏、朴さんはこう語った。

「辛さんは、私と東京で3年同居生活をしたあと、外国へ行くと出ていった。それから数年経ったころ、再び私の前に現れた。この時、懐から出したのが原敕晁(はらただあき)という日本人の免許証とパスポートでした」

 つまり、辛光洙は原さんを拉致して北朝鮮へ連れて行き、個人史を聞き出したうえで再び日本に潜入。大阪市内にあった原さんのアパートを引き払い、東京などへの転居を繰り返した末に当局発行で顔写真だけが辛である原敕晁さんの身分証を取得したのだった。いわゆる「原敕晁さん拉致・背乗り事件」である。

 近くに身寄りがいなかった原さんは大阪の中華料理店コックで、その後、政府認定の拉致被害者となっている。

 原敕晁さん拉致の実行犯は、主犯の辛光洙以外に在日朝鮮人の共犯が3人いた。その一人、金吉旭(キムキルウク)は辛とともに85年、ソウルでスパイ容疑により逮捕されていた。辛は、原敕晁さんに成りすまして韓国に入国していたのだ。だが、90年、盧泰愚大統領の国賓来日、先の天皇との晩餐会出席による大統領特赦で、在日朝鮮人である従犯の金は仮釈放されていた。

 95年2月、私は韓国済州島にある金吉旭の自宅を張り込み、早朝に出勤するところを路上で直撃した。すると彼は声を上げて泣きだし、犯行の全てを認めた。「原さんにはすまないと思っている」と言い、別れ際には、腰を曲げ丁重に頭を下げた。私は、彼が自分のしたことを後悔しているのだと感じた――自分は韓国を吸収統一する偉大な事業のために必要と信じ、名誉とも思って拉致に協力した。しかし、どうだ。北朝鮮では今、餓死者が出、人民は食うや食わずの暮らしをしているのに、韓国では牛肉を腹いっぱい食べ、自由と繁栄を謳歌している。何のために、原敕晁さんの人生を奪ってしまったのか…。その11年後の2006年4月、金は原さん拉致で国際手配されることになる。

次ページ:「子供も拉致」情報

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[1/5ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。