「横田めぐみさん拉致」を滋さん夫婦に伝えた日

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「これは、大きな希望です」

 実はこの日、私の足取りは重かった。迷っていたのだ。世間一般には「北朝鮮による拉致」は知られていなかった。私自身、「本当に子供まで拉致するのだろうか」という引っかかりがあった。韓国情報機関は北朝鮮の悪辣さを世界にアピールするのも任務の一つだ。出鱈目の情報でその片棒担ぎをさせられているかも知れない。もし、自分の取材が間違っていたら……。

 両親にめぐみさんが生存していると知らせて希望を抱かせてしまえばどうなるか。何カ月か何年かあとになって、実は、学校帰りに暴走族にさらわれるなど何らかの犯罪に巻き込まれ、最悪の状態で、例えば山中から発見されたとしたら、両親の絶望は今の何倍にもなるだろう。私は、親の心を弄んだことになる。責任の取りようもない。当時、「北朝鮮が子供を拉致」など、スパイ映画にもドラマにもなかった。

 私は初対面の挨拶もそこそこに、立ったまま拉致を突き止めた経緯を説明した。ひとしきり話すとテーブルに対面する形で座った。

 夫妻の目は涙で光っていた。滋さんが言った。

「行方不明になって半年間は、いつ帰ってきてもいいように玄関に鍵を掛けませんでした。門灯も100ワットの明るいものに変えました」

 早紀江さんは頬を伝わる涙を拭いもせず語った。

「よくもここまで調べて……。よく知らせて下さいました。娘の身に何がどう起きたのかが分からないので、心の整理がつかないのが辛かった。日本海で同じ年恰好の女性の変死体が上がったというニュースを耳にすると、その度に身の凍る思いをしてきました」

 滋さんが続けて、

「家の前を走る道路の10メートルほど先に〈止まれ〉の標識があったので、発進の時に車が吹かすエンジン音が聞こえます。たまに、深夜遅くに聞こえたりすると、めぐみが帰ってきたのじゃないかと、外へ飛び出したものです」

 大事に保管されていた、めぐみさん行方不明時の新聞記事をひとわたり見せてもらった。

 さらに夫妻は口を揃えて言った。

「いままで、娘のことを考えるのにどこをどう向いて考えたらいいか、術がなかった。でも、これで方向が定まりました。これは、大きな希望です」

 私は、これはあくまで一つの情報ですと繰り返し強調した。日朝に国交がないことや複雑な東アジア情勢を考えれば、すぐに娘さんが帰ってくるとは期待できないからだ。

 早紀江さんが言った。

「話を聞いて、夢のようです。とにかく、娘が生きていたらいいと」

 私は念を押した。

「最終的には、ご両親が平壌へ行って直接会い、話をして初めてはっきりするものです」

 5時間ほど横田夫妻宅に居ただろうか。別れを告げる時、二人とも笑顔で希望に満ちた実に明るい表情になっていた。逆に、それが私には辛かった。帰り道、夫妻の言葉を心で反芻しながら、徐々に「もう逃げられない。記者としてやるべきことをやっていくしかない……」と覚悟を決めていった。

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