「横田めぐみさん拉致」を滋さん夫婦に伝えた日

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北朝鮮に翻弄される日々

 その後、私ともう一人、かつて海岸から消えたカップルを調査したことがある国会議員秘書とで、各地に散在する拉致被害者家族に呼びかけ、家族会の結成にこぎつけた。

 世間の関心も高まりつつあった。横田夫妻が、どこにあっても穏やかな口調で娘さん救出を訴えることもあり、間もなく、横田めぐみさんは、拉致事件のシンボル的存在になった。

 思えば、この43年間、滋さんも早紀江さんも、あざなえる縄のように、繰り返し訪れる希望と絶望に翻弄されてきた。

 めぐみさん行方不明から20年の空白という長い絶望の日々。生存を告げられて湧いた希望。家族会が結成され世論の高まりとともに政府も真剣に取り組み始める。しかし、拉致問題が前へ進まないのに北朝鮮へコメ支援がなされると、拉致が棚上げされるのではと不安に包まれる。

 そして、2002年9月の小泉純一郎総理の訪朝を迎える。

 集まっていた衆議院議員会館から、わが子の安否情報を聞くため外務省飯倉公館へ移動する家族たちの誰もが希望に満ちていた。バスに乗り込む際、さあ、帰って来るぞ! とばかり握った拳を振り上げる人もいた。日本の通信社が「有本恵子さん生存、帰国へ」と配信し、それをテレビも速報していた。

 しかし、飯倉公館で、横田さんら複数の家族が絶望のどん底に叩き落とされた。北朝鮮が日本に伝えた安否情報を、福田康夫官房長官が個別に伝えたのだが、めぐみさんについては死亡だった。生存と速報された有本恵子さんを含む8人が残酷にも死亡と告げられた。

 悲しみに沈む家族会が記者会見をできるかどうか、周囲は気遣った。それを「いえ、やりましょう」と言い切ったのが滋さんだった。

 滋さんはあふれる涙を白いハンカチで拭いながら声をふり絞った。

「結果は、死亡という残念なものでした。結婚しており女の子もいると知らされた。北朝鮮は今まで拉致はないと言っていたのですよ。信じることはできない。けれども元気でいると生存を知らされた家族のみなさんは、私たちに遠慮せず喜んでいただきたいと思います」

 早紀江さんはこう語った。

「めぐみは、犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと信じています。本当に濃厚な足跡を残したのだと思います」

 しかし、北朝鮮からもたらされた死亡確認書は、数日のうちに出鱈目な内容であることが判明。家族たちは、「必ず生きている」と、再び絶望から希望へと立ち返る。

 そして2年後、訪朝した外務省幹部に、結婚相手で、やはり韓国から拉致された金英男氏が「これが、妻めぐみの遺骨です」と手渡した。遺骨は10片あった。しかし、DNA鑑定の結果、複数の男性のものが検出された。「ニセ遺骨」だった。

 その後、拉致問題は大きな進展がなく、家族たちは、虚しく歳を重ねていった。

 横田夫妻とは「めぐみさんの写真展」や人権団体主催の対談・講演会で一緒になることが多かった。親睦会だけでなく3人で会食する機会もしばしばあった。

 滋さんは、日本酒の冷酒を好んで飲んだ。1回2回とお代わりすると、早紀江さんが、「もうその辺にしておいてね」と言うのを、私が「もう一杯だけですから。拉致に進展もなく、お酒でも飲まないと、やってられないし」と努めて明るく答えると滋さんに笑顔が戻る。

 鮮明に覚えていることがある。小泉総理訪朝のしばらくあと、品川のレストランで会食した。講演でも記者会見でも、常に穏やかに語る滋さんだったが、その日、突然思い詰めた表情になり、声を上げて泣き出したのだ。泣きながら、

「一体、めぐみはどうなっているんだ。どうしてなんだ。なぜなんだ」

 と嗚咽まじりに言った。

 周りのテーブルには人が居たが、それをまったく気にかけず、しばらく泣き続けた。横に座っている早紀江さんは一瞬驚いた様子をみせたが、すぐにもらい泣きしながら「いいのよ、それでいいのよ」という仕草でじっと見守った。私も涙をこらえられなかった。

 娘の救出に全てをかけて生きてこられたんだとあらためて痛感した。

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