昭和スナックに「コロナ廃業」が少ない理由 “盛り場”を守るママたちのたくましさ

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 緊急事態宣言解除後、ホストクラブなどの「夜の街」で再び感染拡大が広がっていることが批判を集めている。しかし、スナックなどの小さなお店が地域の常連客に“社交の場”を提供してきたこともまた事実である。苦境に立たされるママたちは今、どのようにコロナ禍を耐え忍び、何を考えているのか。“路地徘徊家”のフリート横田氏が追った。

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「ママ、ご無沙汰してしまってすみませんでした」

 日頃、夜の街を歩き、飲み、盛り場の歴史などあれこれ書いている身だが緊急事態宣言が出るや、パタリと出なくなった。自分が感染して重症化する姿は想像がつかなくても、他人に知らぬうちにうつしてしまう怖さは強く感じるようになっていったから。

 が、ようやく5月末になって宣言が解除。「夜の街」で歳を重ねてきたママたちはどうしたろうか。声を聞くべく6月の頭、繁華街へ出た。馴染みのスナックのママたちの顔をしばらくぶりに見るやいなや、まずは口から出てしまうのが、先のお詫びの一言なのだった。

 ところが……

「何言ってるの、私も休んでいたからいいのよ」

 なんて返す刀で笑ってくれたママもいた。メディアが今盛り場を取り上げるとき、最大の関心事は「休業と補償」。苦境に立つ事業者たちのもっとも切実な問題だから当然である。いったん休業して、そのまま廃業してしまった店のニュースは私の耳にも残っている。だがふたたび灯のともりはじめた盛り場のフタを開けてみれば、休業を強いられた者の苦しみの顔以外の表情も、確かにそこにあったのだ。

「人情があったのはカラオケ屋だけ」

 神奈川県は休業要請の緩和について、すべての業態や施設に対し2段階で行う方針を表明している。まずは5月27日、「ステップ1」の緩和が行われた。感染防止対策をすれば、どの業種も午後10時までの営業が可能となった。

 6月9日夜の横浜。JR関内駅を出て福富町・長者町へ向かう。スナックやパブが多いエリアだ。戦後、ハマの盛り場にはおびただしい露店のヤミ市が立ったが、高度成長期に入ると立ち退きが進み、いくつかのビルへ散っていった。この日訪れた飲み屋ビルも、昭和40年代に元露店商たちが流転の果てにたどり着いたビルである。地下へ降り、小さなカウンターだけの店へ。

 ドアを開けた瞬間、オッと声を上げ目を見開いたママ。直後、笑顔に。タバコの煙を吐きながら、ママはこんな言葉をもらした。

「私ね、店を開けてたのよ。でもうちみたいな狭いとこは『3密』もいいとこでしょ? 誰もこないよね。結局、一人でここで本読んでただけね」

 4月11日からの神奈川県の休業要請期間中も店を開けていたというが、客足は途絶えた。私も足を向けなかった者の一人……。平常時でも客がいなければ、カウンター内で一人座り文庫本を開くのが好きなママ。3日間だけ休んだが後は読書をしていたと笑う。電話営業なども一切せず、地下の片隅の小さな店は“読書部屋”にするしかなかったのだ。

「人情があったのはカラオケ屋だけね」

 通信カラオケ機器のリース業者だけがリース料を2カ月間免除してくれたと苦笑いする。

「ふてくされてたのよ! いつでもやめてやるってね」

 コロナ禍で生活が困窮した夜の街の人々が大勢出ている状況には違いないが、40年以上水商売を続けてきたママは笑い話に一旦変換してからコロナ禍話をしてくれる。一喜一憂しすぎない、泰然。老舗の廃業がニュースになる一方、こういうベテランの店も多いはず。とはいえ、ママと目があったときは嬉しそうで、もちろん私も嬉しかった。普段は容易には中をうかがわせない分厚いドアは半分開かれ、風を背中に感じながらあけた、ハイボール2杯。

ただ静かに耐えるママ

 続いてハマの一大飲み屋街、野毛へ。休業要請期間中は、夜間はほとんど人通りがなかったが、ちらほらと歩いている酔客を見かけるようになってきた。野毛のシンボルにしてハーモニカ横丁ともいわれる「都橋商店街ビル」に向かう。2階はスナック街となっているのだ。やはりママ一人の店のドアを開ける。あらーいらっしゃいの声を聞くなりカウンター席につく。この店も10席もない。

「(緊急事態宣言の出された)4月7日から5月一杯までウチは休んだの。2カ月ね。29日、30日と開けてみてもダメ。3月からテレワークが始まってるから会社関係のお客さんもまだ一切こないし」

 そういいながら、2カ月のブランクなど感じさせぬ手つきでハイボールを作ってくれる70代のママ。客はまだ戻らない。休業協力金についても話してくれた。

「外に貼った休業の貼紙写真撮ったり、仲間と役所に行ってさ、保険証だのコピーしたりして申請したけど、8月ごろにおカネが出るなんて話だもの。それと、組合があるんだから言ってくれればいいのにとは思うけどね」

 商店街組合からは助成金申請のサポートなど特になかったと、ママは軽い溜息をつく。高齢の身ながら仲間たちと直接役所に出向いて、記入方法を聞きながら申請した。とはいえそのカネはほとんどアテにしていないらしい。東京に比べて財政力のない神奈川県は協力金の額も小さく(ママのように賃借している場合、第1弾の支給額は20万円。東京の場合なら50万円)、しかも支給時期も夏ごろになるという噂話をママは耳にしている。

「(特別定額給付金の)まだ10万だってもらってないしさ。8月には今住んでるアパートも壊すっていうのに」

 地下鉄で3駅ほど下った街に住むママは、自宅アパートの取り壊しにより立ち退きも迫られているが、転居先はコロナ禍で探せていない。踏んだり蹴ったりだ。

「休んだ間、一滴も飲まなかった」というイケる口のママに一杯ご馳走させてもらう。「周りも静かになっちゃったけどさ、これでも毎日商売している人もいるんだから」とカラリと言いながら、彼女はぐいっとグラスをあけた。

 ここにも悲壮感はない……わけはなく、ただ、出さない。まずは客の私への気づかいのため。あとは一身に吹き付ける嵐が過ぎるのを、ただじっと待っている姿に見える。店員を雇っているわけではないから人件費がかからず、居酒屋のように大量の食材の仕入れもないとはいえ収入が絶たれていることに変わりはない。政治家や補償制度への呪詛を吐いてもらったほうが読者もドラマチックで面白いかもしれないが、それもしない。ただ、静かに耐え、そのうち客が戻ると信じている。

 最後は、海辺の街へ。

休業期間は「楽しかった」

 京急・横須賀中央駅前の崖下には、くねる路地に約200軒の飲み屋が連なる桃源郷がある。その名は若松マーケット。終戦後のヤミ市に端を発する一帯は、間口の狭い小さなスナックが並ぶ。そのうち2番目に古い店、昭和38年から続くバー「サタン」へ。母娘2人で守る小さな店である。4月7日から2カ月、この店も完全に閉めていたというが、ママの言葉はこれまた意外なものだった。

「楽しかったの。休んだ間ね。こんなに長く休むのは久しぶりだったし、やることはいっぱいあったから」

 客と撮っていた写真の整理、もらった名刺の整理など「まあ仕事に関係することばかりだけどね」と笑う母。

「私はマスク作りの毎日でした」

 と看板娘の恵美さんも微笑む。休業に入ってすぐ手縫いでのマスク作りを始めた。人に会ったら渡していたが、再開後の客にも手渡しして喜ばれている。とにかく2人ともやけに明るい。

 と、こんな話をしているとたまたまカウンター席の隣りに座ってきたのは、マーケットの組合長。休業期間中に電話取材させてもらっていた方だ。その折、開けているのは4店だけと聞いたが、今は多くの店が再開したという。とはいえこの街もまた高齢の店主が多い。補償の手続きはもれなく全営業者ができただろうか?  組合でまとめて休業協力金の申請はできないものなのでしょうか…と水を向けてみたが、難しいとの返答。通帳など個人情報も扱うので一括ではできない、と。

 サタンの母娘は、制度へも、金額への不満も吐かない。「いただけるだけありがたい」と、あまりにも謙虚だ。「楽しかった休業」という感想もあいまって、今回の取材では一番、予想外の言葉が並んだ。経営体力があったから、と結論付ければそれまでの話だが、この古びた飲み屋小路にあって「コロナ後の飲み屋街」、未来の姿も思い描いていたのが印象深い。

「コロナ廃業」が出ない理由

 平常時は20時から24時までの営業時間。これが再開後は18時オープンへと早めて、県の認める22時には閉めることとした。

「お客さんの生活ベースが早め早めになってきてるんです。遅くまで開けても、誰も歩いていないですから。早めなら結構飲んでいる人もいますね。意外とこれも悪くないですよ」

 早まった夜の街の時間割を恵美さんは好意的に見ている。ママは実はもっと長く休んでもいいと思っていた。「3、4カ月も休むのは難しいけど、自分たちもお客にコロナをうつしたくないから」。ところが他店も続々と再開した6月頭には足並みをそろえ、自分たちも再開した。その思いを、独特の言い回しで話す。

「飲み屋街って『タテヨコのつながり』があるからね」

 いつまでも休んで、「うちからあそこの店へ行くお客さんの流れがなくなった」みたいなことは避けたいのだ。もちろん逆の期待もしている。客を紹介したり、してもらったり。

 それぞれが勝手に店をやっているようで、歴史の長い飲み屋街であればあるほど目に見えない連携の糸が縦横に張り巡っている。組合のサポート、補償の内容などに期待するよりも、この「タテヨコ」の保持が一番大事なのだとママは言う。自店単独で考えず、客の回遊性まで考える今年57年目を迎えるバーの女性店主は、話し終えるとホホホとはにかんだ。

 この昭和スナック街で「コロナ廃業」の店がまだ出ずに済んでいるのは、このあたりに理由がある気がしてならない。

 一通り話を聞き終え、名物の「横須賀ブラジャー」(ブランデー+ジンジャーエールだからこの名前)をおかわりすると、琥珀色のグラスとともに恵美さんが声をかけてくれた。

「ほら、もらってください」

 カウンターにそっと置かれたのは、綺麗に手縫いされ、ビニール袋に入れられた手作りマスク。そうだ私は忘れていた。最初のビルも、次のビルも、最後のこの酒場通りも、皆戦後以来続いてきた盛り場である。

 オイルショック、バブル崩壊、東日本大震災…途切れず飲み屋街の系譜を守ってきた街なのだ。私は許される限りの小遣いを握りしめ、これからもずっと、「夜の街」に通い続けることを我が肝臓に誓ったのは、言うまでもない。

フリート横田(フリート・よこた)
文筆家、路地徘徊家。編集集団「株式会社フリート」代表取締役。戦後~高度成長期の路地、酒場、古老の昔話を求めて徘徊。昭和や酒場にまつわるコラムや連載記事を執筆。テレビ朝日「モーニングショー」にて昭和の魅力を伝えるコーナーに出演中。著書に『東京ノスタルジック百景』『東京ヤミ市酒場』『昭和トワイライト百景』など。今年、新刊上梓予定。 ・YouTubeチャンネル:路地裏の泥酔者 ・Twitter:@fleetyokota

2020年6月27日掲載

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