「愛子天皇」「女性宮家」否定の民間研究会 皇室問題の重鎮参加で波紋

国内 社会 2020年5月10日掲載

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明治天皇・昭和天皇の皇女が嫁いだ旧宮家の子孫は今上天皇とも縁戚

 ここで、平成17(2005)年11月に小泉純一郎政権下で、「皇室典範に関する有識者会議」(吉川弘之座長、園部逸夫座長代理)が政府に提出した報告書がどういうものだったのかを振り返っておきたい。結論は「女系・女性天皇と女性宮家」を認めるもので、「旧皇族の男子子孫を皇族とする」案については一蹴した。

 その理由を報告書は次のように記している。「旧皇族は、既に60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通の祖先は約600年前の室町時代までさかのぼる遠い血筋の方々であることを考えると、これらの方々を広く国民が皇族として受け入れることができるか懸念される。皇族として親しまれていることが過去のどの時代よりも重要な意味を持つ象徴天皇の制度の下では、このような方策につき国民の理解と支持を得ることは難しいと考えられる」。

 ここでいう「共通の祖先」とは、西暦1456年(康正2年)に没した室町時代の皇族で、世襲親王家「伏見宮家」の3代目当主だった伏見宮貞成(さだふさ)親王のことである。貞成親王の第一王子だった「彦仁(ひこひと)王」は、第101代称光天皇が継嗣を残さず崩御したため、約100年、8親等も隔たりのある立場ながら、時の上皇の猶子(義子)として迎えられて即位、第102代後花園天皇となった。この皇統が現在の皇室に連なっている。

 一方、弟の第二王子は世襲親王家「伏見宮家」を継いで貞常(さだつね)親王となった。この系統が昭和22(1947)年の皇籍離脱まで皇族として存在した11宮家に連なった。いわば、旧皇族に連なった伏見宮という世襲親王家が皇統断絶の危機を救ったとも言えるわけで、皇統がこうした先人の知恵によって危機を乗り越えて連綿と続いてきたことを考えれば、単に「600年前」「遠い血筋」だと一刀両断に“除外”してしまうのはおかしい。座長を務めた吉川弘之氏が報告書を提出した際に「歴史観や国家観で案を作ったのではない」と記者団に述べたそうだが、ロボット研究の工学者である同氏には、現在の象徴天皇制が長い皇室の歴史の延長線上にあるという認識などなかったのだろう。

 さらに重要なことは次のような事実である。旧宮家のうち明治時代後期に久邇宮(くにのみや)家から独立して創立した東久邇宮家については、明治天皇の皇女聡子(としこ)内親王が初代当主の稔彦(なるひこ)王と結婚し、その子息の盛厚(もりひろ)王の夫人には昭和天皇の皇女の成子(しげこ)内親王が嫁いだ。このほか、明治時代後期に旧北白川家から独立した竹田宮家の初代当主恒久(つねひさ)王の夫人も明治天皇の皇女昌子(まさこ)内親王である。ほとんどの旧宮家の子孫が、現在の「天皇家」と縁戚にあたり、報告書が言う「遠い血筋の方々」というのは、この点からも正確ではない。

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