こんな時期に気持ちが前向きになる話「ちっぽけな私は実は凄い奴なのだ」

国内 社会 2020年4月4日掲載

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 この時期、気分があがりまくっている、というのはよほど奇特なタイプであって、何とも言えず気が滅入っている、というのが普通だろう。悲観ばかりしていても仕方がない、とわかってはいても、日々更新される情報を浴び続けてはそうもいかない。

 そこで、どんな人でも「自分はすごい」と思えるような話をご紹介したい。京都大学名誉教授(細胞生物学)で歌人でもある永田和宏さんの著書『知の体力』には「ちっぽけな私は実は凄い奴なのだ」という題から始まる文章がある。細胞生物学者ならではの観点で、人間ってすごい存在なんだな、と感じさせ、前向きな気持ちにしてくれる内容だ。同書から引用してみよう。

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ちっぽけな私は実は凄い奴なのだ

 私の専門は「細胞生物学」である。生命の基本単位である細胞というちっぽけな空間のなかで、どのような生命活動が営まれているのかを研究している。生命科学のなかでももっとも根幹をなす学問分野、などと言うと、いかにも難しそうなので、最初は数字で驚いてもらうことにしている。

 細胞が1個1個集まって個体を作っていることは誰でも知っている。1人の人間のなかにある細胞の個数がほぼ60兆個というのも常識になりつつあるだろうか。(注:37兆個という説もあるが、それもまだ確定ではないので、ここでは60兆として話を進める)細胞の大きさは、10ミクロンほど。もちろん顕微鏡でなければ見ることはできない。

 それでは君の身体の細胞を一列に並べたら、どのくらいの距離になると思う? と問いかけると、誰もそんなことを考えたこともないようで、正解はほぼ皆無である。60兆という数を知識としては知っているのだが、実感としては経験していない。あるいは知識を自分の感性のなかに組み入れようという意識が希薄なのだと言えようか。

 単純な計算である。1個の細胞の直径を10ミクロンとして、60兆倍すればいいだけのことである。掛け算をしてみれば、60万キロメートルという答えは小学生レベルの算数で簡単に求まる。この数もすごい数だが、それをどう実感するかは、勉強への興味と関心に直結するだろう。60万キロと言っても、60兆という数で理解しているのとたいして変わらないが、これをもう少し具体的な尺度をもって理解しようとすれば、それは地球を15周するだけの長さである。地球1周は4万キロメートルである。新しい37兆個という数で考えても、地球を9周あまりの距離になるはずである。

 私たちは1個の卵子と1個の精子が受精した、たった1個の受精卵から出発した。卵子自体は通常の細胞より大きく、0・1ミリほどの大きさである。頑張れば肉眼でも辛うじて見えるほどの大きさだ。

 1ミリの10分の1ほどの存在でしかなかったものが、わずか20年足らずのうちに、地球を15周もできるだけの長さの細胞を作ってきた。誰の助けも借りずに、自分だけの力で、これだけの細胞を作ってきたのである。これに感動しない人はいるだろうか。ちっぽけな存在でしかないと感じていた自分が、紛れもなく自分だけの力で地球15周分の細胞を作ってきた。

 因みに、『奥の細道』で知られる松尾芭蕉は、「奥の細道」の行程で、多い日は1日50キロメートルを歩いたとされる。そこまで行かずとも、人が1日に歩ける距離の平均は35キロメートル程度だと言われている。生まれてから20歳になるまで、この速さで毎日歩き続けたとしても、とても地球15周には届かない。せいぜい6周あまりというところである。自分という存在を褒めてやりたい気分にもなるだろう。こんな小さな感動があれば、興味と関心はおのずから学問へ向かうものである。

 60兆個と言われても、大きな数だなあという感想は得られるだろうが、どのくらいの数なのかは、少しも実感されていないのだろう。しかし、その知識としての数を、例えば、一列に並べた距離が地球15周などという風に、想像力の及びやすい形に変換してやることで、その数の凄さが実感でき、それがいかに凄いことであるかに対する感動と驚きが生まれるのである。こういうちょっとした横道を厭うから、勉強がつまらないものになる。

「何も知らない〈私〉」を知ること

 読書をすること、あるいは学問をすることの意味とは何なのだろうか。一般には、これまで知らなかった知識を得ることという答えが返ってきそうだが、読書の〈意味〉、学問の〈意味〉というものを考えたとき、その答えだけでは十分ではないだろうと私は考えている。

 読書によって、あるいは学ぶということによって、確かに新しい知識が自分のものとなる。しかし読書や学問をすることの〈意味〉は、端的に言って、自分がそれまで何も知らない存在であったことを初めて知る、そこに〈意味〉があるのだと思う。ある知識を得ることは、そんな知識も持っていなかった〈私〉を新たに発見することなのだ。

 私一人の身体のなかに地球15周分もの細胞が詰まっていると知ることは、そんなにすごい存在だったのかと感動することは、そんなことも知らない自分であったということを、改めて知ることからくる感動なのだ。初めから何でも知っていたら、感動などは生まれない。「知らない存在としての自分を知る」こと、学問はそこから出発する。

 自分の知っていることは世界のほんの一部にしか過ぎないのだと自覚する、それはすなわち自分という存在の相対化ということである。それを自覚しないあいだは、自分が絶対だと思いがちである。自分だけしか見えていない。世界は自分のために回っているような錯覚を持つ。

 自分は〈まだ〉何も知らない存在なのだと知ることによって、相手と自分との関係も見えてくるだろうし、世界のなかでの自分が存在することの意味も考えることになるだろう。私は〈まだ〉何も知らないと自覚することは、いまから世界を見ることができるということでもある。それが学問のモチベーションになり、駆動力になる。

「何も知らない自分」を知らないで、ただ日常を普通に生きていることに満足、充足しているところからは、敢えてしんどい作業を伴う学問、研究などへの興味もモチベーションも生まれないのは当然である。しかし、ああ、自分は実は世界のほんのちっぽけな一部しかこれまで見てこなかった、知っていなかったと実感できれば、そして自分がこれまで知らなかった世界がいかに驚異に満ち、知る喜びにあふれていることを垣間見ることができれば、おのずから知ることに対する敬意、リスペクトの思いにつながるはずである。

 こんなちっぽけな私の身体のなかには、地球15周分もの細胞が詰まっているのだという驚きと感動、その驚きは必ず自分という存在を見る目に変更を迫るはずである。自分という存在を尊厳の思いとともに見ることのできる基盤ができることでもあるが、いっぽうで、このまま何も知らずに人生を漫然と送っていては、こんな喜びに出会えないだけでも大きな損だろうと思えれば、シメタものである。

〈他者〉の発見

 わが家に小さな子どもがやってきた。まだ1歳にもならない女の子である。世の中では孫と呼ぶらしいが、それが可愛いのである。

 見ているといくつも発見がある。自分の子のときには見えていなかったことばかりである。彼女は世界の中心にいる。天動説のようなもので、自分では何もしなくても、すべてが彼女のまわりをまわっている。世界を所有し、世界は包んではくれても、対峙することはない。

 保育園や幼稚園に行くようになって、同じような年齢層の〈他者〉に初めて出会うことになる。ここで〈他者〉を知ることが、すなわち自分という存在を意識する最初の経験となるのだろう。世界は自分のためだけにまわっているのではないことを初めて知る。

〈他者〉を知ることによって初めて〈自己〉というものへの意識が芽生える。「自我のめばえ」は、〈他者〉によって意識される〈自己〉への視線である。自分を外から見るという経験、これはすなわち学ぶということの最初の経験なのである。

 先に述べたように、読書をするということは、「こんなことも知らなかった自分」を発見すること、すなわち自分を客観的に眺めることである。〈自己〉の相対化であると言ってもいい。

 こんなことを考えている人がいたのかと思う。こんなひたすらな愛があったのか、こんな辛い別れがあるのかと、小説に涙ぐむ。それらは「読む」という行為の以前には、知らなかった世界ばかりである。それを知るということは、すなわち「それを知らなかった自分」を知るということである。一冊の書物を読めば、その分、自分を見る新しい視線が自分のなかに生まれる。〈自己〉の相対化とはそういうことである。

 勉強をするのは、そのためである。読書にしても、勉強にしても、それは知識を広げるということも確かにその通りだが、もっと大切なことは、自分を客観的に眺めるための、新しい場所を獲得するという意味のほうが大きい。小さな子が他者と出会って初めて自分に気づいたように、私たちは〈自己〉をいろいろな角度から見るための、複数の視線を得るために、勉強をし、読書をする。それを欠くと、ひとりよがりの自分を抜け出すことができない。〈他者〉との関係性を築くことができない。

 勉強や読書は、自分では持ち得ない〈他の時間〉を持つということでもある。過去の多くの時間に出会うということでもある。過去の時間を所有する、それもまた、自分だけでは持ちえなかった自分への視線を得ることでもあるだろう。そんな風にして、それぞれの個人は世界と向き合うための基盤を作ってゆく。

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 世界中の人が、経験したことのない事態に直面している。しかし、その経験やそこから得られる発見、学んだ教訓が人類に何かしらの貢献をしてくれる日がいつか来るのではないだろうか。

デイリー新潮編集部