ノーベル賞受賞者も京大名誉教授も「教科書を信じるな」と口を揃える理由
「教科書を信じるな」の真意
2018年のノーベル医学生理学賞を受賞することが決まった本庶佑・京都大学高等研究院特別教授は、受賞の記者会見で、科学者を目指す子供たちに向けて「教科書を信じるな」というメッセージを発した。
もちろん、それは「学校なんか要らないぜ」といったパンクな主張ではない。
本庶教授が語っていたのは、教科書を鵜呑みにするのではなく、「本当はどうなっているのか」という心を大切にすべきだ、という心構えだ。好奇心、不思議に思う心を持ち、自分の目で物を見て考え、納得できるまであきらめない。そういう心が研究者には必要だ、というのだ。
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長年、研究に身を捧げると、こうした考えに到達するのは自然なことなのだろうか。本庶教授と同様に、京都大学で長年研究を続けてきた永田和宏・京都大学名誉教授(細胞生物学)も、著書『知の体力』の中で「教科書」についての考えを述べている。
永田教授の場合、大学での講義では教科書を使わない方針だというのだ。
「参考図書として教科書的な本を指定することはあるが、自分では使わない。高校までの教育では、教科書は必須のアイテムである。学習指導要領というものがあり、高校生なら高校生として、全国一律にここまでは教えなさいと細かく規定されている。全国、どの高校でも同じ範囲を教え、同じ学力をつけるためである。そのために教科書は便利であり、それに則って授業をしてゆけば、もっとも効率よく知識を伝えることができる」
ぎりぎりのところを伝える
効率よくて何が悪い、と思われるかもしれないが、永田教授は教科書に書いてあることは、読んでもらえばいいと考えている。だから講義で同じ内容を繰り返す必要はない、時間の無駄じゃないか、と。
「教科書を読んでわからなければ教師に質問にくればよいのであって、自分ひとりで理解できることを、わざわざ教師が繰り返す必要はない。教師はそこまで親切である必要はなく、あってはならないとまで考えている。高校までとは違うのである。
実は、私自身、細胞生物学の分野でいくつかの教科書を編集したり、執筆したりしているので、これはある意味、はなはだしい自己矛盾であるが、私の書いた教科書は、参考書として使ってもらえればいいと思っている。
大学の教師は、教科書にはまだ書かれていない、自分にもまだ十分にはわかっていないぎりぎりのところを学生に伝えようとするところに、その本来の使命があると思っている。それが魅力的な講義になるはずだというのが謂わば私の信念である。
私の同僚であった吉田賢右(まさすけ)先生は、『どんな教師でも3回質問すれば答えに窮する』と言っておられた。真実だと思う。
質問する。先生が答えてくれる。それに対してもう一度質問する。それを3回繰り返せば、先生といえども誰も自分では答えられない領域に踏み込まざるを得ないというのである。私は吉田先生の名言だと思っている。
まさにそのようなぎりぎりの線で講義をしている教師にこそ、魅力はあると言うべきではないだろうか。間違いのないことだけを伝えている先生は、いかにうまく教えられても、親切で丁寧でも、魅力的だとは言えないだろう。それを見分けるには、まず質問をしてみることである」
理系の研究者だけに限られた教訓ではないだろう。どのような立場の人であろうと、教科書的な知識や、いわゆる正論を疑ってみる姿勢は、常に求められるのではないか。