歴史上の毒親はハンパない! 毒母に育てられた応神天皇の小狡い性格とは

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応神天皇のただ一度の自己主張

 というのも応神は、『宋書』倭国伝のいわゆる倭の五王の一人である“讃”に比定される場合もあり、実在する最古の天皇という説もあります(私が高校時代はそう習いました)。

 この応神に伝えられる逸話は、激しい母とは正反対の優しく穏やかなものばかり。

『日本書紀』によれば、日向国の美女カミナガヒメを妻にしようとした際、息子のオホサザキノ命(のちの仁徳天皇。以下、仁徳)が彼女に一目惚れしたのを知ると、2年越しで用意した結婚にもかかわらず、息子に快く譲ってしまいます(応神天皇十三年九月条)。

 古代天皇家にあって、これがいかに寛大な処置であるか。

 たとえば景行天皇は、妻の候補を息子のオホウスノ命に奪われ、オホウスの同母弟のヲウスノ命(のちのヤマトタケルノ命)に「ねんごろに教え諭せ」と命じ、結果、オホウスはヲウスに殺されてしまいます。父のお妃候補をもらい受けた仁徳にしても、自分のお妃候補を奪った異母弟を殺している。

 奪われるのとはわけが違うとも言えますが、応神は、吉備国出身の妃が親を慕って嘆いていると、吉備へ帰るのをゆるした上、彼女の船を見送ってさえいるのです。

 激しい母のコントロール下にあった応神は、子や妻に対しても自己主張が苦手な性格に育ってしまったのかもしれない。

 毒親育ちにはありがちなことです。

 そんな応神がただ一度、自己主張に近いことをしています。近いことというのは、ダイレクトな自己主張ではなく、子供に決めさせる形の巧妙な自己主張だから。

 応神は死の前年、皇子の中で主だったオホヤマモリノ命と仁徳を呼んで、こう尋ねました。

「お前たちは子を可愛がっているか?」

「えらく可愛がってます」

 二人が答えると、さらに、

「年長の子と年少の子とどちらがとくに可愛いか」

 とたたみかける。年長のオホヤマモリが、

「年長の子にまさるものはありません」

 と答えると、

“天皇、悦びたまはぬ色有り”

 要はビミョーな顔つきになったのです。

 一方の仁徳は、あらかじめ父の顔色を観察し、答えます。

「年長の子はたくさん年を重ねて、すでに成人しているから心配もありません。ただし年少の子はまだ一人前になれるか分かりません。そのため年少の子がとくに愛しいです」

 すると、天皇は大喜びしたのです。そして、

「そなたのことば、まことに朕の心に叶っている」

 と言って、二人の異母弟であるウヂノワキイラツコを太子にしたのでした。

毒親に育てられた子の「ずるさ」――子に忖度を求める

 このくだりを初めて読んだ時、妙な気持ち悪さを感じたものです。

 それは今思うと、応神のずるさと親としての冷酷さ、それを受けた仁徳の要領の良さというか、自分の気持ち度外視で親の意を汲むやり方に、違和感を覚えたのです。

 忖度って、1500年以上も前からあったんですね。

 仁徳は、まさに父の顔“色”をうかがって、その意を汲んでいる。

 そして父の応神ははじめから言いたいことは決まっていた。「下の子が可愛い、だから下の子に皇位を譲りたい」と。なのに、それを子に言わせようとして、「お前たちは子を可愛がっているか?」などという質問形で入り、自分の意に添う答えを待っていた。 

 ところが、察しの悪い上の子のオホヤマモリはバカ正直に「上の子が可愛い」などと答える。一方、登場人物の中では真ん中っ子にあたる仁徳は察しが良い。その察しの良さに助けられ、父の応神は「下の子が可愛い」と言うように仕向け、自分に都合のいい方向に話を持っていった。

 なぜはじめから「ウヂノワキイラツコに跡目を譲りたい」と、ズバッと言えないのか。

 神話作者は言わせないのか。

 一つには、それだけ応神の意中とするウヂノワキイラツコの即位の正統性が低く、兄にあたるオホヤマモリや仁徳が納得しないと考えたからでしょう。

<系図2>を見てください。

 オホヤマモリの母は、皇后より前に応神の妃となっていたタカギノイリビメノ命です。タカギノイリビメは景行天皇の子のイホキノイリビコノ命の孫。つまり景行天皇の曾孫に当たります。仁徳の母は、このタカギノイリビメの妹のナカツヒメノ命で、同じく景行天皇の曾孫の上、皇后でした。

 一方の下の子ウヂノワキイラツコの母は、和珥臣<わにのおみ>の祖であるヒフレノオホミの娘のミヤヌシノヤカハエヒメ(『日本書紀』ではヤカヒメ)。和珥氏(当時は氏はなく、大和の和珥一帯の豪族といった意味)は名族ではあるものの、二人の兄より母方の格は低い。

 こんなことからウヂノワキイラツコを太子にするには相当無理がある……と応神は考えたのかもしれない。

 とはいえ、古代は末子相続説もあるくらいだし、そもそも神功皇后は実在を疑われ、その子供である応神天皇の事績にしても鵜呑みにはできないと言われている。

 すべては日本神話編著者の創作の可能性もあり……なわけで、ならばダイレクトに「朕はウヂノワキイラツコに皇位を譲りたいのじゃ」と言わせても良かったんじゃないか。

 それをさせずに、上の子たちに質問をして、彼らに答えさせるというような他の天皇には見られない言動を、なぜ神話の編著者は他の天皇でなく、よりによって応神にさせたのでしょう。

 それは彼が神功皇后の子だったからではないか。

 神功皇后のような母に育てられた子は、応神のようなタイプになるということを、古代人が知っていたからではないか。

 強い母・神功皇后に忖度し続けた結果、自身も子供に意識的・無意識的を問わず、忖度を求めるような人間になる。気弱さと、一種のずるさを持つようになる、と。

「ずるさ」ということばが悪ければ、「自己防衛本能」と言い換えることもできます。

 そうしなくては、自分を守れない。自分が傷つかないようにしているのです。小さいころから、「あなたは何がいいの?」と母に聞かれながら、いざ選ぶと、

「ママはこれがいいと思うの」と言われ続けた子は、自分が否定される痛みを味わわないように、自分が傷つかないように、人に選ばせる。人に選ばせるようでいて、巧妙に意志を通すすべを学ぶのです。形の上では人の意志を尊重しているから、人の反感も買わず、自分も嫌な思いをせずに済む……。

 にしたって、なにも「上の子と下の子とどっちが可愛い?」などと質問して、答えさせなくてもね……。しかもそれを上の子に言うとは、上の子の気持ちなんてみじんも考えていない。

「下の子が可愛い」と言わされる羽目になった上の子らにしてみれば、面白いわけがありません。

 応神死後、子供たちに争いが起きるのは、あらゆる観点からみて当然なんですよね……。

※1 天武以前は皇后は大后、天皇は大王と呼ばれ、景行などの漢風諡<おくりな>も8世紀後半に決められたが煩雑になるので諡で呼ぶ。また現行の天皇の即位順は明治期に決められ、それ以前は天皇と見なされなかった者、逆に官撰の『日本書紀』では天皇とされなくても『風土記』などでは天皇と記される者もいるが、現行の即位順を用いる。

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年4月3日掲載

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