新型コロナ 百田尚樹氏はなぜ早くから警鐘を鳴らせたのか

国内 社会

2020年04月03日

  • ブックマーク

 新型コロナウイルスの脅威は増すばかりで終息の気配はいまだ見えない。ほんの数カ月前、まだ中国でのみ蔓延していた時期が遠い昔のようだ。あの頃は、日本のみならずほとんどの国の人が、自分の問題として捉えていなかった。

 一方、1月の時点で、危機感を露わにしていたのが作家の百田尚樹氏。1月25日段階で百田氏はこうツイートしていた。

「私が新型肺炎の脅威を書き、政府の無策を書くと、『大袈裟に言うな。煽るな!』というリプをもらう。中には『新型肺炎について何を知っているのだ』と言う者もいる。

 たしかに私は専門家ではない。しかし作家の勘で、今回はとんでもない事態だとわかる。

 この勘が外れて、私がバカにされることを祈る。」

 このツイートに限らず、百田氏はかなり早い段階で渡航制限などを強く求め、政府の対応の遅さを厳しく批判していた。

 現状を見る限り、この「作家の勘」は当たっていたことになる。では、これは単なる「勘」だったのか。百田氏が自身の危機管理に関する考えを端的に述べた文章が、著書『戦争と平和』の中にある。これを読むと、「勘」の背景にある思考法がわかるかもしれない。以下、同書より抜粋して掲載しよう。

 ***

悪いことを考えると実現する?

 私たち日本人の間では、縁起の悪いことを言う人を嫌う傾向が非常に強く見られます。

 たとえばチームでプロジェクトに取り組んでいる際に、

「これ、失敗したらどうするの?」

 などと口にすると、強い反発や不興を買います。周囲から、

「何てこと言うねん。縁起でもない。そんなこと今から言うなよ」

 と怒られます。

 日常的なことでもこの傾向は同じです。結婚式では「切れる」「別れる」といった言葉は禁句になっています。受験生がいる家では「すべる」「落ちる」が禁句です。

 そんな縁起なんか担いでない、と思っている人も知らず知らずにやっていることは珍しくありません。たとえば会合や会議を「お開き」にする、という言い方があります。これは本来は「〆る」ということなのですが、それでは縁起が良くないので「開く」と逆の言い方をするようになって、広まったわけです。

 河原に生えている「葦」は、本来は「あし」と呼んでいたのですが、「よし」とも呼ぶようになりました。これは「あし」が「悪し」に通じて、縁起が悪いから正反対の「よし」という呼び方にしたのです。「スルメ」を「あたりめ」と呼ぶのも同じ理屈です。「スル」がバクチなどでお金を「する」ことに通じるので、逆の「アタリ」を持ってきて「あたりめ」に変えたわけです。こういう現象は、日本社会では数多く見られます。

 悪いことを口にしたがらないのは、それを言い出した者が、本当にそうした悪い事態を引き寄せる、という考え方があるからです。一種の「言霊信仰」です。

撃たれなければいいのだ

 悪いことは想定しない、考えない――ある種、日本人の伝統的ともいえる思考法が、ゼロ戦の設計思想にも表れていると考えると、わかりやすいのではないでしょうか。

 ゼロ戦の弱点に対する疑問に戻りましょう。なぜ防御力が無いのか。

 それは撃たれることを想定していないからです。「撃たれた時にどうするか」ではなく、「撃たれないようにしよう」あるいは「撃たれなければいいのだ」という思考が前提にあります。

 もちろん、撃たれないようにするのは大切なことです。速度や旋回性といった様々な優れた性能は、そのための有力な武器となるでしょう。が、戦場で相手も必死で挑んでくる以上、まったく被弾しないということは考えられません。だから、撃たれないようにしながらも、撃たれた時の対策も考えるというのは当然です。

 ところが、当時の海軍の上層部はそういうことを想定しないようにしていたとしか思えません。そんなはずはない、とおっしゃりたい読者がおられるでしょうが、ゼロ戦(その時点では十二試艦戦)の要求書の中に、防御力に関するものがなかったのですから、そう受け止めざるをえません。

 しかし、第一線で実際に戦う兵隊たちは、上層部よりも現実的です。なぜなら撃たれて死ぬのは自分だからです。実際に、ゼロ戦は燃料タンクに一発でも被弾すれば、すぐに火だるまになったり、爆発したりしました。これではたまらないということで、何とか防弾の工夫をして欲しい、といった要求が前線の搭乗員から何度も出ました。やがて上層部も、もっともだと考えて、対策を検討しました。

 しかし防弾のために鉄板を厚くするといった工夫をすれば重量は増します。すると当然、性能の一部は落ちることになり、攻撃能力は落ちます。その折り合いをどうつけるか、といった議論が昭和18(1943)年頃に海軍トップと技術者たちとの間で何度も行われました。

 議論の結論がなかなか出なかった時、源田実参謀(戦後、自衛隊で航空幕僚長)が、こんなことを言ったのです。

「もうこんな議論は無意味だ。要するに撃たれなければいいのだ」

 航空部門のトップがそう言ったことで議論は打ち切りになりました。そしてゼロ戦の防弾に対する本格的な改造テーマは棚上げとなったのです(マイナーな改造はありました)。しかし、「撃たれなければいい」というのはどう考えても無理な話です。

日本国憲法は「万が一」を想定していない

 このエピソードを読者の皆さんはどうお感じになるでしょうか。

 昔の軍人は馬鹿だなと思う方もおられるでしょう。論理的思考が欠如していると思う方もおられるかもしれません。しかし実際には現代でも同様の思考法は蔓延しています。

 たとえば日本国憲法の中には「緊急事態条項」がありません。緊急事態条項とは、戦争や大災害のように国家存亡の危機が発生した場合に、憲法や法律の平時通りの運用を一時的に停止するというものです。

 世界各国の中でこうした緊急事態に関する条項がない国などほとんどありません。平時には想定できないような事態が発生した場合に、超法規的措置にあたれるという決まりが必要なのは、世界的に見ても常識中の常識です。国家にとって最も重要なのは、国民の命や国土を守ることであって、平時の法律を守ることではないからです。

 ところが前述のように、日本国憲法には緊急事態条項は存在しませんし、それについての議論すらタブー視されている感があります。その最大の理由は、緊急事態条項を設ければ、「戦前に戻ることになる」「国家が国民を弾圧する」といった論理で反対する勢力が多くいるからです。彼らは、ひとたびそうした条項が出来れば、「法の拡大解釈を招き、結果として国家権力が危険なふるまいをする」といった類の懸念を示します。

 しかし根底には、「悪いことを想定したくない」という心理が働いているのではないかと私は考えています。つまり、外国がいきなり攻撃をしてくること、侵攻してきて占領することを想定したくないのです。

 つい最近も、そうした思考法の弊害が重大な局面で見られました。東日本大震災によって福島第一原発が深刻な事故に見舞われた時のことです。

 あの時、事故処理のためのロボットは国内の原発にはありませんでした。実は以前から、深刻な事故が起こった時に、それに対応できるようにロボットを開発すべきだ、という声は現場から上がっていたのです。しかし、それは上層部で握りつぶされてしまい、開発は進みませんでした。これはなぜでしょうか。

 仮に電力会社が万が一の事故に備えてロボットを導入しようとすると、

「おたくは事故なんか起こらないと言ったじゃないか」

 という反対意見が飛び出すからです。

「確かにそうですが、万が一に備えるのはどうでしょう」

「いや、それはおかしいでしょう。事故は起きないというのなら、ロボットなど必要ないでしょう。ロボットを導入するということは、事故が起きる可能性があるということを、電力会社は認めているということになる。矛盾しているじゃないですか」

 原発反対派や一部のメディアからこうした理屈で責められることを、東電側も嫌がったのでしょう。だから「万が一」は無いことにして事を進めてきました。それであの大惨事が起こりました。

 こういうことは、身近なところでも多く見られるのではないでしょうか。一般企業でも、「社運を賭けた新製品」が出るという時に、「これがコケた時の備えもしておきましょう」と言える社員はほとんどいないはずです。マイナス材料をあえて口にすることは、とても嫌われるからです。

 欧米では結婚に際しても、「離婚した際の財産分与を予め取り決めておきましょう」ということは決して珍しくないようです。しかしこれを日本でやろうとしたら、おそらく相当な変人扱いされるでしょう。

 ***

 日常生活を送る上では、心配ばかりするのは健康に良くないだろう。しかし、トップやリーダーは心配しすぎるくらいの姿勢が求められる。表に出すかどうかは別として、最悪の事態に備えて何重もの対策をして欲しいと国民は考えているのではないか。

デイリー新潮編集部

2020年4月3日掲載