丸9年の「3.11」――変貌する古里「飯舘村長泥」のいま

国内 政治 Foresight 2020年3月11日掲載

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 晴れた日には青く太平洋が見える、阿武隈山地の標高約550メートルの峠道(国道399号)。

 2月18日、車で向かった福島県飯舘村長泥への道は雪に覆われていた。

 東京電力福島第1原子力発電所(双葉町・大熊町)と地理的に近く、2011年3月の同原発事故によって村内で唯一、放射線量が年間20ミリシーベルトを超える、と指定された帰還困難区域。

 東日本大震災と原発事故から丸9年を迎えた現在も、地区への出入りを制限する緑色のバリケードが立つ。行政区長の鴫原良友さん(69)に同行させてもらい、その現状を取材した。

山里を埋める除染土袋

 鴫原さんとの長泥行は、2016年10月、2018年5月に続いて3度目だった。バリケードの内側にすぐあるのは、「あぶくまロマンチック街道」の標石が立つ展望台。2年前には同じ場所で、つづら折りの道に連なる満開の桜並木を鴫原さんと見た。

 64年前の2村合併で飯舘村が誕生した際、長泥出身の初代村長が記念にソメイヨシノの苗木を住民に配り、植えられた。時の皇太子、美智子妃のご成婚祝賀も重なったという。村の桜の名所になり、住民たちが毎春花見を楽しんだ。原発事故の後は誰にも愛でられることなく咲き続けたが、この日見たのは、枝々がばっさりと伐られた無残な姿だった。

「もう病気でだめになった。枝垂れ桜、山桜も植えて約100本、俺たちが大事に手入れをしてきたが、それから長い避難生活になり、寿命もあって、どの木にもカビが生えて薬もなくて、仕方なく全部伐った。(東電に)賠償を、とも思ったが、道路脇は国の土地だからな」

 山林を縫う道を100メートルほど下ると、長泥の里に至る。現れたのは、段々の水田跡を延々と埋めた除染土袋(フレコンバッグ)の山だ。1トン詰めの黒い袋だが、雪の白が存在の不気味さを隠していた。

 その一部は民主党政権時代の2012年2月、農林水産省が鴫原さんの水田など11ヘクタールで行った農地除染対策実証事業の表土剥ぎ取り実験の除染土の保管場所だ。

「何年掛かっても復興に取り組む」

 と東北出身の鹿野道彦農水相(当時)は意気込み、2万ベクレルあった土1キロ当たりの放射性物質濃度を91%減らし、空間線量も8.72マイクロシーベルト/毎時から2.29に下げる効果を上げた。

 鴫原さんは帰還に希望を抱いたが、同年7月に帰還困難地域に指定され、地区の3カ所をバリケードで閉ざされた。

 さらに12月の政権交代で、期待した事業そのものが立ち消えに。長泥は政治に翻弄された。

 2013年には、剥ぎ取り除染の実験がなされた水田5アールで村が行った水稲栽培試験に区長として参加し、自ら田植え機で苗を植えた。

「住民が帰還した後の営農の希望につなげたい」

 との強い思いだったが、地区の内外から「帰還を急がせるパフォーマンス」などと心外な批判をされ、栽培試験は1年で中止に。国と村、住民との板挟みにも苦悩し続けることになる。

 筆者の2年前の取材時、空間線量がさらに0.6ほどに低減した鴫原さんの水田は、きれいに草刈りがされていた。たとえ作付けはできなくても、自分の田に雑草を生やしたくない農家の心情からだった。

 ところが、いまは膨大な数の除染土袋の仮置き場と化している。

「3万3000袋だか、ここにある。飯舘村の中の除染で生じて、長泥に運ばれてきた土だ」

復興をめぐる葛藤と変転

 この新たな除染土袋の出現については、鴫原さんにとって長く苦い経緯があったことを知る必要がある。

 帰還困難区域は、原発事故被災地では長泥地区のみならず、7市町村で計337平方キロに及んだ。

 国は、高線量のため未除染のまま残った帰還困難区域の復興策として、交通、産業、居住の要地となりうる地域を「復興拠点」(特定復興再生拠点区域)として指定し、集中除染してインフラ整備の上、住民の帰還を促している。

 福島第1原発のお膝元で、町域の大半が帰還困難区域だった双葉町で今月4日、大熊町でも翌5日、JR常磐線の全線再開に合わせて中心部の一部が避難指示を解除された、というニュースはその実施例だ。

 山懐に74世帯が点在していた長泥は、しかし、国から「復興拠点に該当しない」との考えを示しされた(2016年12月27日の『取り残される飯舘村「長泥地区」(下)「行き違い」の末の袋小路』参照)。

「地区全体の除染」など帰還に望みをつなげられる救済を訴えた住民に対し、国側は2016年11月の説明会で、

「避難先での『なりわい』再開などへの生活支援を考える」

 といった回答に終始。半ば見捨てるような姿勢に鴫原さんらは憤りながら、やむを得ず翌2017年8月、

「せめて住民が集えるミニ復興拠点を設けて」

 と村に要望した。

 長泥住民の思いを、8月8日の『河北新報』はこう伝えた。

〈要望書提出の方針は6日、が地元の集会所で開いた総会で、参加した約50人に説明した。それによると、ミニ拠点は現在の集会所、体育館、グラウンドがある場所に設定。宿泊施設のほか、地区の歴史を伝える資料館の整備を求める〉

〈行政区長の鴫原良友さん(66)は「これまで村や国に何度も(全域の)除染を求めたが駄目だった。誰も納得できないが、妥協しないと前に進めない」と苦渋の表情で理解を求めた〉

 翌9月4日の同紙は、長泥行政区と飯舘村、国の協議が始まったことを報じた。

〈行政区の8人をはじめ、同席した復興庁、県の関係者ら計約20人が出席。冒頭、行政区長の鴫原良友さん(66)は「(ミニ拠点設置に向け)村や国と話を進めていきたい」などと話した。復興庁関係者は「国は市町村の計画を見た上で、(認めるかどうか)判断する」と語った〉

〈非公開の協議後、菅野典雄村長は「(拠点設置場所の妥当性などについて)現地を視察しながら行政区と話し合い、年度内には計画を作りたい」と述べた。

 鴫原さんは「(原発事故から)6年半も待っている。村や国も具体的な提案を出してほしい」と話し、素早い対応を期待した〉

 ところが、同年10月になって「環境再生事業」という提案が環境省から飯舘村に伝えられ、長泥地区の先行きをめぐって閉塞した状況がにわかに変わる。

降ってわいた提案

 剥ぎ取り方式の除染で生じた汚染土は、福島第1原発近くで稼働中の中間貯蔵施設(福島県内で生じた約1400万立方メートルを30年間保管。帰還困難区域分を除く)に運ばれるが、環境省は早くから保管容量の限界を判断したようだ。

 同省の「中間貯蔵除去土等の減容・再生利用技術開発戦略検討会」の第3回会合(2016年3月)で、全量処分は「実現性が乏しい」と指摘された。「適切な前処理や減容技術の活用により除去土壌等を処理することで放射能濃度の低い土壌等を分離し、管理主体や責任主体が明確となっている一定の公共事業等に限定し 再生利用する」と資源化が提唱されると、それを「環境再生事業」に具体化させる。

 その後の顛末は、拙稿『帰還困難区域「飯舘村長泥」区長の希望と現実(上)動き出した「復興拠点」計画』(2018年5月19日)で詳報させてもらった。

 環境省は、除染土のうち安全に焼却したり埋設したりできる基準とする8000ベクレル(土壌1キロ当たり)未満の土を選別し、盛り土などの資材に再利用する実証実験を、2016年12月から南相馬市小高区の仮置き場で行った。

 高さ2.5メートル、長さ54.5メートルの台形の道路状の試験場を造成し、内部は除染土を5層に盛り、その上に厚さ50センチの遮蔽土で覆う――という方法で、安全性が確認されたという。その方法での本格的な事業実施を長泥地区でどうか、と同省が村に提案したのだった。時機を測ったものとも思えた。

 村から長泥行政区に環境省の提案が紹介されたのが、2017年10月末。行政区の役員会、住民説明会を経て、菅野典雄村長、伊藤忠彦環境副大臣(当時)と鴫原さんがそろって村役場で、「長泥での環境再生事業実施で合意」を記者発表したのは11月22日。驚くような展開の早さだった。

 環境省の手法で除染土を資源化して農地再生の事業を行い、復興拠点の対象区域を除染の上で集会所や公営住宅を設ける。地区の74世帯(252人)のうち57世帯の宅地が対象に含まれる計画と発表され、5カ月後には国が認定するに至った。

 2023年春までに長泥の避難指示解除を目指して住民の帰還を促し、目標人口を180人程度としている。長泥だけではなく、全国の公共事業に広めるための実証事業という意味合いもあった。

「復興拠点」の対象に指定されたのは186ヘクタールで、そのうち農地再生の事業が行われるのは34ヘクタール。広大な面積だ。鴫原さんが「3万3000袋だか、ここにある。飯舘村の中の除染で生じて、長泥に運ばれてきた土だ」と語ったのは、まさに農地造成の盛り土用の資材として、村内各地の仮置き場から大型ダンプで集められた除染土袋の山だった。

〈国内、世界でも初めての手法なのだそうだ。地元は歓迎しているという印象だが、「(環境再生事業を)受け入れなければ、話をこのまま国に返すほかないんだ」と役場からは言われた。やるか、やらないか、しかない雰囲気だった。

 古里に外から汚染土を持ってこられて、誰も喜ぶはずはない。だが、事業をやることで(年間被ばく)線量が帰還困難区域の指定基準(20ミリシーベルト)より下がれば、解除されて帰還宣言を出せるだろうとも言われた。俺たちからすれば苦渋の選択だった〉

 前掲の拙稿で紹介した、当時の鴫原さんの苦悩に満ちた言葉だ。

 区長とは地域の1人の住民に過ぎない。国という巨大な交渉相手の政治力、法律や制度をわがものと操る手練手管に翻弄されながら、原発事故への理不尽と憤りを訴え、当事者としての声を振り絞り、時に妥協も呑み込み、古里の望みを手探りした。

失われてゆく風景

 鴫原さんの自宅を初めて訪ねたのは、2016年10月の取材の折だった。

 うっそうとした屋敷林を背に堂々と立つ平屋の農家だった。

 70年近く前、父親が分家して建てたという。母屋にはもう家具類はなく、ふすま4枚分の幅がある神棚に「家内安全、身体堅固、交通安全」のお札が家族の数だけ並んでいた。

 いま、あの神棚はおろか、大きな家そのものがなくなった。昨年7月末に環境省による解体工事があり、草刈りなどに使うトラクターの車庫など2棟だけを残して、復興拠点の対象区域にある50戸余りとともに壊された。この後、家の敷地も周囲20メートルにわたって除染される予定だという。

 広い空き地に立って鴫原さんは語った。

「以前は1週間から10日ごとに長泥に来て、家に寄った。避難してから2、3年は写真もよく撮ったが、もう(すべてが)変わりすぎて撮る気がなくなった。ただ、カメラマンに頼んで最後の姿の写真は記念に残した。家の解体の日には立ち会わなかった。壊すところなんて見ていられないよ、気持ちがきついもの。以前は、春になると草花を植えたりしていたが、それもやめた。もう何もないんだもの」

 鴫原さんの自宅跡から、車は国道399号と県道の交差する通称「長泥十字路」に出た。原発事故前は昔ながらの商店やガソリンスタンドなどが並び、「長泥銀座」とも呼ばれたそうだ。

 その名残もまた解体工事で跡かたなく消え、復興拠点計画に伴い除染が行われたことを示す真新しい砂利が敷かれている。

 津波にのまれた古い街の跡に高さ10メートル余りの人工地盤をかさ上げし、人が暮らした痕跡すら消してしまった三陸の被災地の風景にも通じる虚無感を覚えた。

 ここで生まれ育った人々にとって古里とは何か、という問いだ。

 長泥十字路に近い集会所に以前の取材で立ち寄り、明治以来18代にわたる区長たち、ヤーコンを地元特産にしようと栽培に取り組む住民たちの写真も見た。

 村と共同で商品化した「ヤーコン焼酎」のポスターもあった。

 記憶のタイムカプセルのようだった集会所も解体されていた。

 近くの里山の斜面には、地区に3カ所あるという共同墓地の1つがある。雪の坂道を登ると鴫原家の墓があり、山峡の長泥の小盆地を一望できた。

 県道沿いに細長く延びる水田のほとんどが農地再生の事業の対象となり、4月からの2020年度、埋め立ての準備工程となる大規模な除染作業が一斉に始まるという。

 長泥の風景はさらに変わる。

「ここの墓地には三十数軒のお墓があったけれど、ずいぶんなくなった。みんな避難先の福島(市)に家を建ててるから、10軒くらいは墓も持っていったんじゃないか。もう9年、それで終わりでなく、環境省の事業はこれからだもの。ふつうは(長泥に)戻れるわけがないんじゃないか。俺の家でも、子どもや孫は戻らないと言っているからな」

「帰る」という人はいない

 長泥十字路を反対方向の南に少し走ると、比曽川沿いに白く巨大な細長いドームが見えてきた。環境再生事業の心臓部に当たる、長さ100メートルという除染土の再生資源化プラント施設だ。長泥に運ばれた除染土袋の土から異物をふるいに掛けて除去し、濃度分別機という特殊な機材で農業に利用可能な基準の5000ベクレル未満の土だけをより分ける工程を行う場所だという(環境省の『除去土壌再生利用技術等実証事業概要』を参照)。

 本格稼働は、農地再生の埋め立て工事が始まる2021年度からとされるが、施設の周囲では資源化した土を使って露地でのバイオマス資源作物、ハウスでの花、緑肥作物の試験栽培が始まっている。

 ハウスには鴫原さんら長泥の住民有志が通い、トルコギキョウ、カンパニュラ、ストックなどの栽培を手伝っており、2月9日、これらの花を大臣室に飾っているという小泉進次郎環境相が視察をしていった際、鴫原さんも区長として立ち会った。

「福島の復興が新たなステージに入ることを象徴する花」

 と小泉環境相は現地で語ったそうだ。

 鴫原さんは「ここに来るのが楽しみなんだ」と1人でハウスに立ち寄ると、自ら栽培に携わった紫のストックの切り花を数本手にして出てきた。

 環境再生事業が完了すれば、埋め立て対象地となっている地権者の住民には、資源化された除染土に覆土した新たな農地が換地され、引き渡される。避難指示解除のその時、どんな農業の姿と地域の未来を、環境省や村は思い描いているのだろう。

 鴫原さんは地権者ではないが、

「俺は、一番現実的なハウス(の花栽培)をやればいいと思う」

 と言う。

「ここでコメや野菜を作ろうという人は村民にはいないと思う。あるいは、村外の会社が進出して何か大規模にやってくれればいいが」

 長泥十字路の一角には掲示板があり、原発事故の発生直後から住民が自主測定した日々の放射線量(空間線量・マイクロシーベルト/毎時)が記された記録用紙が残っている。

〈(2011年)3月16日 7.5 3月17日 95.1 3月18日 52 3月19日 59.2 3月20日 60 3月21日45 3月22日40 3月23日 35〉

 当時、政府は福島第1原発から同心円で20キロ圏に避難指示を出し、圏外の飯舘村は避難指示対象外だった。村には福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの医学者たちが講演に訪れては、「直ちに健康に影響はない」と、政府と同様の見解を繰り返した。「外ではマスクを着用し、外出後は手を洗うなど基本的な事項さえ守れば、医学的に見て村内で生活することに支障がない」との講演内容 が、3月30日の村の広報お知らせ版(ネット版)に記されている。 

 高濃度の放射性物質が北西の飯舘村方向に拡散したことが分かり、政府が村に全住民の「計画的避難」指示の方針を発表したのが4月11日(葛尾村、浪江町、川俣町、南相馬市の一部も)。長泥の住民たちは国から捨ておかれながら、地元の自主測定結果を見て家族の若い世代を自主避難させた。

 鴫原さん自身が避難したのは、買っていた6頭の牛を6月23日、県畜産市場(本宮市)での競売に出した後だった。村が定点測定する最近の数値は2.20前後に低減しているが、長泥の人々が当時の生死を賭した体験を忘れることはない。

「俺たちは毎年10月、離れ離れになった住民の交流会をやっていて、いまも90人くらい集まり、今年もやろうという話になっている」

 だが、誰も口にはしないが、「帰る」という人はいないという。

 原発事故から9年がたち、鴫原さんは70歳が目の前、仲間も同様だ。

「うちのお母さん(妻)も息子も孫も、帰らないと言っている」

 2年前から福島市にある村の公営住宅で同居しているが、いずれは、同市内に中古で買い求めた家に引っ越すつもりだ。今月末でちょうど5期10年を勤め上げる行政区長も辞めようと考えている。

「俺は長泥が好きだが、子ども、孫の世代に譲りたい、何とかつなぎたいけれど、現実にはそれは難しくなった。長泥からは遠い場所で暮らしているのだし。もう俺らの時代で一区切りするしかなく、何が正しかったか、100年後に答えが出ればいいと思う。それぞれが自分の道を選んで歩くしかない。国や東京電力を相手の交渉でストレスをため、長泥への帰還を模索し苦闘したが、俺はやるだけやったな、生かされたな、という気持ちだ」

引き裂かれる古里の痛み

 長泥十字路から眺めた環境再生事業、復興拠点計画の対象区域から外れると、荒れるに任された姿の家々が並んでいた。

 原野に戻った農地の跡やハウスの残骸も目に入った。

 その道沿いには解体された側の廃材や除染土袋の置き場が何カ所もあった。

 帰還困難区域から出る廃棄物や高濃度の除染土は、中間貯蔵施設の受け入れ対象ではなく、地元に留めおくほかない。

 環境再生事業にはまた、「形を変えた最終処分ではないか」という批判もある。

 やはり除染土を資源化して南相馬市小高区の常磐自動車道の工事の盛り土に再利用しよう、という環境省の実証事業には市民の強い反対運動が起き、二本松市の市道工事を対象にした実証事業の計画も頓挫した。

 長泥で反対の声が挙がらないのは、もはや住民が離れてしまった結果ではないのか。

 誰のための――という問いが、ここでは宙に浮いたままだ。

 除染土を宿命として懐に抱える「古里」の引き裂かれる痛みを、1人の区長が背負い続けてきた。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/