新型コロナ、オープン戦は無観客試合で思い出す私のデビュー戦【柴田勲のセブンアイズ】

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 新型コロナウイルスの感染拡大がプロ野球界を直撃している。29日から3月15日まで開催する今季のオープン戦全72試合が無観客試合となった。

 無観客試合はオープン戦、公式戦を通じて史上初めてのことだ。ウイルスの感染拡大防止を最優先させたもので、3月20日の公式戦実施には状況を慎重に見極める方針だ。

 無観客試合か。どうしたって選手たちはモチベーションが上がらないと思う。まだオープン戦に出場していない新人選手にとってもファンに姿を見せる機会が失われることになる。お客さんが球場にいてこそ、プロの雰囲気を肌で実感できる。

 実際、西武とソフトバンク、それにロッテとオリックスが無観客練習試合を行ったが、選手たちからは「テンションの上げ方が難しい」とか、「お客さんがいて応援してもらえる方が気持ち盛り上がる」なんて声が出ていたようだ。

 初めての経験だから仕方ないが、選手たちの標準は3月20日だ。実施されることを信じてキッチリ仕上げてくれるに違いない。

 オープン戦が無観客であろうと、選手たちがやるべきことは同じだ。紅白戦、練習試合もそうだが、自分自身がオフからキャンプにかけて磨いてきたものを監督、コーチたちにアピールする。さらに調整具合を確認して公式戦に備える。

 やることは変わらない。

 でもまあ、オープン戦の無観客は新人たちには残念だね。

 私、デビュー戦を思い出した。1962(昭和37)年3月5日、平和台球場での対西鉄戦だった。当日は川崎徳次さん(前監督)の引退試合で、西鉄の先発は前年に42勝を挙げた稲尾和久さんだった。

 当時の西鉄打線は豊田泰光さん、高倉輝幸さん、さらに中西太さんらが顔を並べる超重量級で、ほぼベストメンバーだった記憶がある。川崎さんの引退試合ということで稲尾さんが投げて、打線も花を添えたのだろう。

 私は話題のルーキーということで、急きょ起用されたのだろう。投手コーチだった別所毅彦さんは「あいつ、3回持つかな?」と心配していたけど5回を被安打3、奪三振5の1失点でオープン戦ながらプロ初登板初勝利を挙げた。

 マウンドに上がった時はさすがに緊張した。でもスタンドを見渡したらお客さんの入りはガラガラだった。当日は月曜日のデーゲームで、おまけに寒い日だった。後で知ったのだが、観衆は6000人だった。

 高校時代(法政二高)は甲子園球場の超満員の中で投げていた。それでもプロ選手として初の大舞台だし、なによりも悪コンディションにも関わらず熱心に足を運んでくれるファンがいるんだ。こう感じ取った覚えがある。

 前夜、映画を観て門限ギリギリに宿舎に帰った。新聞記者さんたちが待っていて、私は「外角のコーナーに低く決まればプロだってそうは打てないと思います」と話している。

 当時はこの時期、「投高打低」だった。打者は2月15日頃まではトス打撃が中心で、投手の調整に比べて遅れていた。だから試合も1対0とか2対1なんてのが多かった。監督の川上(哲治)さんからは褒められた。「投高打低」の時代とはいえ、西鉄打線をしっかりと抑えた。これも投手の基本中の基本である「外角低め」を意識し、実践した結果だったと思う。

 この年、阪神との開幕戦で第2戦の先発に起用されたが、オープン戦でのアピールが大きかったのだろう。この試合ではKOされたんだけど。

 新人君たちはこんな時だからこそ、先輩たちに負けないようにガムシャラにアピールしてほしい。

 これからどうなるか見通しは立たないが、新型コロナウイルスの拡大が収束して、無事に3・20開幕を迎えられるようにと願っている。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月1日掲載

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