北島義俊(大日本印刷会長)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】

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 本の活版印刷から始まった技術を、包装用品や建築資材、さらには電子工学素材、ICカードにも応用し、近年は医療分野にまで印刷の力で挑む大日本印刷。今や出版物の割合は10%以下だが、一方で書店を傘下に収め書籍の流通網も整備する。巨大印刷会社から見た紙媒体の未来とは?

佐藤 北島会長は、大日本印刷に入られる前に、富士銀行(現みずほ銀行)にいらっしゃったそうですね。

北島 ええ。大学を卒業して、昭和33年に丸の内支店に入りました。

佐藤 実は他界した私の父も富士銀行でして、昭和27年の入社でした。技術者だったのですが、まず小舟町(こぶなちょう)支店に勤務して、その後東京事務センターにおりました。

北島 そうでしたか。私はその後、本店経理部の主計課に行きまして、父のいたこの会社に来ました。

佐藤 銀行での経験は、大日本印刷という会社の経営に役立ったのではないですか?

北島 直接ではなくても、何かはあるでしょうね。

佐藤 資料を拝見して、バブル期に株や不動産に手を出さなかったと知りました。それは銀行にいらした経験があるからじゃないかと思ったんです。

北島 ああ、それはあったかもしれませんね。

佐藤 いろいろな話が持ち込まれたでしょう。

北島 「融資するから、少し不動産をやったらどうだ」とか「ビルを造ったらどうだ」とか言われましたね。でも、それらを突っぱねてきたのがよかった。

佐藤 銀行員は、銀行が借金を剥がす時の恐ろしさをよく知っていますから。そのせいで、私の家の家訓は「借金するな」です。

北島 それはうちもそうですよ。

佐藤 その結果、大日本印刷は長寿企業として今、印刷業の範囲にとどまらない様々な事業を展開されています。

北島 当社は、1876(明治9)年に創業した「秀英舎」と、1907(明治40)年に創業した「日清印刷」が、1935(昭和10)年に対等合併し、現在の「大日本印刷」になりました。両社とも出版を中心としていましたので、創業から75年間は出版物の印刷一筋だったんですよ。

佐藤 日本の出版文化を支えてこられたわけですね。

北島 そこから多角化へ舵を切ったのは、1951年のことでした。出版印刷だけでは限界があるとして、紙だけでなくフィルムなどへの印刷へと展開して包装のパッケージや建築資材への印刷に事業領域を拡げていきました。

佐藤 建材などは、日本の住居に大きな変化を与えていますよね。

北島 当時、住友ベークライトさんが「デコラ」という建材(化粧板)を作っていて、その印刷を手がけたのが最初です。

佐藤 印刷という技術を様々な分野に応用されていった。

北島 よく「木に竹を接ぐようなことはうまくいかない」と言っているのですが、我々は印刷とかけ離れたことはできない。やっぱり印刷分野の製造業ですから、印刷技術を中心に事業領域を同心円状に拡げていく。そこでしか会社を発展させられないと思うのです。我々はそれを「拡印刷」と言っています。

佐藤 「脱印刷」ではなく、「拡印刷」なんですね。

北島 これは私の信念です。昔は、出版以外の仕事はしたくないという人がたくさんいました。パッケージや建材を手がける際には相当な反対があったと聞いています。ですが、それをやらなければ会社を発展させられなかったのは確かなことです。

佐藤 活字を組んでいた人たちは、職人気質を持っていますからね。

北島 そうなんです。だから出版物の印刷においても、活版印刷からコンピュータ組版(CTS)によるオフセット印刷に切り替える時が大変でした。

佐藤 それも日本の印刷文化を変えた大きな転換点ですね。

北島 原稿に従い、活字棚から鉛の活字を順番に拾って箱に納めていくことを「文選」と言います。これは熟練工の仕事だったんです。

佐藤 印刷後や増刷の際の文字直しは「象嵌」と言いますよね。修正する部分の鉛版を切り取ってそこに文字を埋め込む。

北島 そうです。でもそれができる人がどんどんいなくなっていきましたから、CTSに切り替えることは必然でした。今、私どもの会社でも、鉛の活字を見たことのない社員がかなり多いですよ。

佐藤 そうでしょうね。

北島 私どもがCTSを始めた時、なかなかうまくいかず、方々から叱られました。社内でも「あんなものやめてしまえ」という意見がたくさんあった。でもCTSに転換しなかったら印刷業を続けてこられなかったと思います。

佐藤 新しい技術が出る時には当然軋轢(あつれき)が生じますよ。

北島 CTSにしたことで、その後のデジタル化へと繋がり、今の様々な事業があるわけです。

佐藤 デジタル分野や、エレクトロニクスのインフラを支えるモノづくりを多方面でされていますからね。

北島 ええ。エレクトロニクス分野では、1958年にカラーテレビのブラウン管に使う「シャドウマスク」を手がけたのが最初です。テレビは、ブラウン管の奥から発射した電子ビームを蛍光体に当てて映像を作り出しますが、その際にビームを透過させる多数の穴が空いた金属板が必要になります。それがシャドウマスクで、写真製版技術やエッチングの技術などを応用して作ったんです。

佐藤 これまた生活に大きな変化をもたらした。

北島 これを使って翌年、東芝さんが国産初のカラーテレビを発表します。この時は株価が大きく上がりましたね。

佐藤 そこから様々なエレクトロニクス分野、例えば半導体などにも繋がっていく。

北島 会社としては、ICカードへの挑戦なども大きかったですね。当社は磁気カードを早くから手がけておりまして、その応用で1980年代に書き換え可能なICカードを開発しています。普及には時間がかかりましたが、電子マネーなどにも使われるようになり、現在は国内でトップシェアになっています。

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