10カ月の間、マンホールに隠されていた「保母の遺体」と消えた日記 【平成の怪事件簿】

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 平成から令和に持ち越された“謎”――。警察の必死の捜査むなしく、未解決のままの事件は少なくない。この「多摩保母殺人マンホール死体遺棄事件」もそのひとつだ。警察がマークしたのは3人。その中にマンホールを開閉できる人物がいたのだが……。(駒村吉重 ノンフィクション・ライター)

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 彼女の遺体は、暗い道路下の空洞に10カ月近くも閉じこめられていた。

「マンホールから、汚水があふれでています」。正月気分が抜けきれない平成9年1月14日、多摩市役所に電話で寄せられたこの苦情が、事件発覚のきっかけだった。急行した管理会社の作業員が、氾濫する汚水のなかに人体らしきものを見つけ、110番通報している。腐欄した体の一部がはがれて、マンホールの底を走る下水道を塞いでいたらしい。

 歯型鑑定によって身元を特定された。39歳の保母・八木橋富貴子さんの名は、地元署にとっていわく付きであった。彼女には前年3月、郷里の父親から家出人捜索願が出されていた。普通でないのは、「探す会」を結成した元同僚らが、不倫相手を名指しして、事件として捜査に踏み切るよう強く要請していたことだった。

 そんな経過もあり、事件後、41歳の市役所職員・Kが、まっさきに捜査線上に浮上する。だが彼は、身を隠すどころか、直撃した記者に堂々と言った。

「私は逃げも隠れもしませんよ。しかし、私を名指しして自分は安全地帯にいるつもりの人だって、疑わしい点がないといえるんでしょうか」

 その反論は、彼女の少なくなかった男性関係を踏まえてのことだった。順繰りに方々の交際相手を洗っていった警察は、遺体発見の翌月になって、ようやく核心部のKに切り込んでいった。

「捜査本部では男性を重要参考人とみて、10日朝、勤務先に近い府中市内で任意同行を求め、聴取を始めた」(「産経新聞」夕刊、2月10日付)

 だれの目にも、決着は間近と思われた。

複数の交際相手

 問題のマンホールは、多摩市内のスーパー駐車場の前を走る道路のなかほどにあった。蓋は直径60センチ、重さ40キロほどもあり、専用工具を使わないと簡単には開閉できない。京王永山駅から徒歩15分ほど、昼間は車や人の流れがたえない場所で、八木橋さんがひとりで暮らしていたワンルームマンションは、このすぐ200メートルほど南にあった。

「ヤギ先生」の愛称で園児から親しまれていた八木橋さんは、長年勤めた多摩市内の保育園から6年ほど前に、北区の保育園に移っていた。失綜前日の平成8年2月27日は、いつも通り、夕方に勤め先から自宅に戻り、最後の姿は、夜9時ごろに部屋を訪ねた新聞の集金人によって確認されている。部屋の状況から、これより遅い時間に外出先で殺害されたと考えられている。

 翌日は、無断欠勤となった。

 不審に思った同僚の連絡で、翌々日には青森から父親が駆けつけてきた。部屋に入った同僚は、彼女がいつも持ち歩いていた巾着が消えているのに気がついた。なかには財布と日記帳、貯金通帳などが入っていたはずだった。さらに部屋の整理をするうちには、事件前年の日記帳も見あたらないこともわかった。

 もし、それらが持ち去られたとするならば、犯人はこの1、2年の間に頻繁に日記に登場する人物である可能性が高い。

 青森県出身の彼女は、地元の保育専門学校を卒業して昭和52年に上京し、多摩市内の保育園で14年間働いた。記者に退職の理由を問われた園長は、

「1991年3月に“縁談があるので”と突然ウチを辞めた」(「FOCUS」1月29日号)

 とこたえている。だが八木橋さんは、結婚することなく、通勤に1時間半ほどもかかる北区の保育園で仕事を続けていた。わざわざ、そうしなければならなかったわけは、諸説あって判然としない。

週刊新潮」(8月14、21日合併号)に、捜査の経過を詳しく語る証言があった。取材にこたえているのは、なんと事情聴取を受けた交際者のひとりで、40代の自営業者だった。

「僕も彼女と都合4年ほど付き合いがあったんですが、警察に言わせると、疑わしいのが10人ほどいて、それを3人に絞り込んだ。一人が僕で、一人が仲間の保母さんのご主人、そしてK。でも保母さんのご主人も僕もアリバイがある。3人の中でアリバイがはっきりしないのはKなんです」

 八木橋さんは上京してまもないころにKと知り合って、2、3年交際を続けたのちに別れていた。ところがKが結婚したころに、ふたりは付き合いを復活させる。不倫関係を厳しく咎めたというある同僚は、復縁が平成3年ごろであったと話す。ちょうど、彼女が多摩市内の保育園を辞めた時期と重なる。

 そのKには、決定的に不利な状況がさらにあった。八木橋さんの失綜当時、彼は近くに住んでおり、しかも職務柄、特殊な工具を入手して、マンホールを開けられる立場にあったのである。

 しかし――、関係者が固唾を飲んで見守った任意聴取はじきに打ち切られた。

 元警視庁捜査第1課長だった田宮榮一氏は、監修を手がけた『未解決殺人事件ファイル』(廣済堂出版)のなかで、「K氏が真犯人だという思いこみに引っ張られていると、他の人物のアリバイ捜査がおざなりになっている危険性がある」と盲点を指摘する。

 3年ごとに点検されるマンホールに、果たして事情通が遺体を隠すだろうか、という彼の考察は、Kに疑いがかかるのを狙った人物の目論みを示唆していた。

 しかし以降、あらたな重要参考人はあらわれず、事件から早、20年以上の歳月が過ぎ去ってしまった。

駒村吉重

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月2日掲載

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