追悼・金田正一さん 監督時代、選手にタイトルを獲らせるために考えた“2つの奇策”

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「両親を大切にせなあかんよ」

 次は2度目のロッテ監督時代、1991年の首位打者獲得作戦だ。金田監督が“突貫小僧”と呼んで目をかけていた左の巧打者・平井光親が残り3試合の時点で、打率3割1分6厘をマーク。すでに全日程を終えている2位・松永浩美(オリックス)に2厘差をつけていた。だが、平井が首位打者を確定させるには、規定打席403まであと3打席必要だった。もし3打数無安打に終われば、打率は3割1分3厘となり、松永を下回ってしまう。単純計算して、最低でも3打数1安打がノルマだが、平井が必ず打てる保証はない。そんな状況下で、金田監督は取って置きの秘策を披露する。

 10月16日のダイエー戦(川崎)、ロッテは初回に先頭の西村徳文が振り逃げで出塁し、無死一塁。ここで金田監督は「待ってました!」とばかりに、2番・横田真之に代打・平井を送る。平井はきっちり送りバントを決め、そのままレフトの守備に就くと、第2打席で三振、第3打席で遊飛に倒れたところで、お役御免になった。犠打は打数に含まれないので、3打席で2打数無安打である。

 この結果、平井は3割1分4厘4毛まで打率を下げたが、松永をわずか4毛差で上回り、プロ3年目にして首位打者獲得。「ようやった!」と笑顔で祝福した金田監督は、愛弟子の快挙を見届けると、翌日のダイエー戦で2期8年にわたる監督歴に終止符を打った。

「コロンブスの卵」と言うと聞こえはいいが、強引に帳尻を合わせるような方法に、批判の声もなかったわけではない。だが、八木沢も平井も、これがプロ野球人生で唯一のタイトル。おそらく2人は「絶対にタイトルを獲らせてやる」と知恵を絞ったアイデアマン・金田正一に、今でも特別な気持ちを抱きつづけていることだろう。

 筆者は20年以上前、通算400勝の取材で金田氏にお会いしたことがある。名刺を渡して挨拶した直後、金田氏は開口一番「両親は今年で何歳?」と尋ねてきた。長年「昭和○○年生まれ」で年齢を計算していたため、平成を加えた分、やや返答が遅れると、即座に答えられなかったことが気になったとみえ、「両親を大切にせなあかんよ」とたしなめられた。国鉄入団時、母・君子さんから「貰った給料は全部食べることに使いなさい。そして2倍稼ぎなさい」とアドバイスされた話を振ったとき、「イヤ、10倍稼ぎなさいと言われたんや」とうれしそうに答えていた姿も忘れられない。取材後、「また会うこともあるやろ」と言われ、再会を約したが、その後、一度も機会がないまま、訃報に接することになった。心からご冥福をお祈りしたい。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

2019年12月28日掲載

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