イチローを見出した仰木彬監督の「個性を削らない」指導力

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 前回ご紹介した横浜ベイスターズの大矢明彦監督の「変える力」に続き、今回取り上げるのは仰木彬監督の「見抜く力」である。このように言えば、誰もが「イチローのことね」とピンと来るだろう。もちろんイチローの才能を見出したことは仰木監督の偉業ではあるものの、その監督としての魅力はそれだけで語り尽くせるものでもない。ノンフィクション『指導者の条件』(黒井克行・著)から引用してみよう(以下は同書より・文中敬称略、肩書等は当時のもの)

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 選手、コーチ、監督と合わせて48年間も日本プロ野球のユニフォームを着た男がいる。西鉄、近鉄、オリックスとパ・リーグ一筋、仰木彬である。たとえば、野村克也は43年で、他に40年以上は7人しかいない。仰木が指導者に転じてから人気で劣るパ・リーグを盛り上げるのに振ったタクトは“仰木マジック”と呼ばれ、球史に残る1988年の「10.19」をはじめ数々の名勝負を作り出し、その“教え子”には野茂やイチロー、田口らメジャーリーガーが名を連ねる。

 1935年、仰木は福岡県中部を流れる遠賀川の中程に位置する中間町(現中間市)で生まれた。筑豊炭田の一角にあって、特に川沿いの住民は気性が荒く負けん気も強く、情熱も同居することから“川筋者”といわれた。そこで育った仰木自身、まさにそれを地でいった。進学した東筑高校の先輩に任侠映画のヒーロー高倉健がいたのは興味深い縁だ。

 3年の時、投手として甲子園に出場した仰木は、名将三原脩率いる西鉄ライオンズに1954年に入団。が、春のキャンプ早々、二塁手にコンバートされた。三原監督自らが握るバットから繰り出されるノックの雨にプロの洗礼を受けるが、仰木は体に当てられた球を拾うや三原の顔面をめがけて投げ返し、「さあ来い! ノッカー!」と叫んでいた。「川筋者か、骨のある奴」と三原は目を細めた。

 1年目からレギュラーに定着した仰木は中西太、豊田泰光ら野武士軍団の一員として西鉄黄金時代を築いていく。選手としては1試合6安打のパ・リーグ記録も残しているが、他に目立った活躍はない。が、三原、中西との出会いは仰木のプロ野球人生の原動力になっていた。

 1967年に現役を引退し、翌年、そのまま西鉄でコーチに就任。セ・リーグからの誘いもあったが、尊敬する三原の娘婿であり、“兄貴”と慕う中西監督の下に仕えることを迷わず選んだのである。

「自分の原点は“三原野球”」という。

 監督と選手のなれ合いを嫌い、冷徹な戦力分析と戦略・戦術に徹して合理的にゲームを組み立てる野球だ。

 1970年、仰木はその三原が近鉄の監督に就くや、守備走塁コーチに請われ随行した。ヘッドコーチを経て、都合18年ものコーチ歴を務め上げた後、監督の椅子が巡ってきた。今度は中西が打撃コーチとして仰木を支えることになった。

 監督1年目の1988年10月19日。今でも球界で語り草となっている「10.19」、西武との優勝争いの行方が最終戦までもつれ込んだ「ロッテ対近鉄」のダブルヘッダーが行なわれ、近鉄はこの2試合に勝つことが、優勝する絶対条件だった。1試合目は接戦の末勝った。2試合目も延長戦に突入する大熱戦となり、急遽、テレビで全国中継されるや視聴率は関西地区で40%を超え、関心を独り占めした。結果、引き分けで涙を呑んだが、前年最下位の近鉄のこの戦いぶりはパ・リーグへ衆目を集めることになった。“仰木マジック”の始まりであり、仰木自身、「あれが自分の監督としての原点だ。あれがあるから今の俺がある」と語っている。

 翌1989年、ライバルとなる西武はリーグ4連覇、日本一3連覇中の黄金期にあった。近鉄は前年、その王者をあと一歩のところまで追い詰めた自信はそのまま揺らぐことはなく、そこへオリックスも加わった三つ巴の優勝争いとなった。仰木率いる近鉄は2位オリックスに1厘差で9年ぶりにリーグ優勝を果たした。

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 仰木が監督になって一体何が変わったのか? 中西が鍛え上げた“いてまえ(大阪弁で「やっちまえ」の意)打線”を看板に、仰木は“三原野球”を踏襲するデータ重視の野球に徹した。中心選手の一人だった金村義明は「非情采配」という。

「前の試合で3本ヒットを打っても相手投手との対戦データや相性で次の試合に起用されるとは限らない。あと1人抑えれば勝ち投手になれるのに平気で交代させる。勝つためには情は一切無用、非情ですよ」

 逆に、前日にスタメンから外れた選手を4番に据える離れ業もあった。それもあくまでデータに裏付けられた結果だ。

「データは公平な判断材料になるし、選手たちの機会均等にも繋がる。そうすれば自然と競争原理が働いてチーム内に緊張感が出てくる」

 決め手となるデータはスコアラーから上がってくる数字が中心だが、仰木はそこから別の要素も読み取っていた。

「数字を見ていると発見がある。四球にも、あの時アイツが打席に立つと相手はコントロールを乱したと思い出す。選手に運気があることも忘れてはならない」

 良い当たりを打ってもいつも野手の正面を突いていたことも見逃さなかった。

 北海道遠征でのことだ。チーム事情から3人の投手のうち1人だけ2軍に落とさなければならない。仰木は食事の席で、対象の3人にビールの一気飲みで速さを競わせ、その結果で1人を決めるという。その中には下戸の吉井理人がいて、勝負はすでに決まっていたかに思えたが、意外にも吉井は物凄い勢いで真っ先にジョッキを飲み干した。吉井の必死の飲みっぷりが1軍を死守した。仰木は一気飲みで負けん気を試していたという。

 仰木は「俺は人に恵まれ、運がいい」と言う。恩師三原、盟友中西もさることながら、選手には野茂やイチローがいた。

 野茂が最初に監督である仰木に言ったのは「僕のフォームを絶対にいじらないで下さい」だった。打者に背中を向けるトルネード投法だが、仰木は受け入れ、「当人の好きなようにさせろ」と現場に指示を出した。結果、野茂は新人ながら投手8部門のタイトルを総ナメにした。

「個性を削っては元も子もない。選手自身の発想を大切にして才能を伸ばすことが一番だ」という方針で、「グラウンドで結果を出してくれればいい」とも。門限なしの罰金なしで、規則で選手を縛ることはなかった。

 1994年、オリックスの監督になった仰木は鈴木一朗と出会う。前年は1軍と2軍を行ったり来たりで、1軍での成績は43試合64打数12安打、打率・188の選手である。上からフォームの矯正を命じられても独自の「振り子打法」にこだわり、半ば“冷や飯”を食わされていた。仰木は鈴木の非凡さに目をつけ、打法を尊重し、1年間、1軍で使い続けた。日本球界初となる年間200安打以上の210安打。打率・385で首位打者、この年から7年連続で同タイトルを獲得するイチローの誕生である。

 イチローは「仰木さんとの出会いがあるからこそ今の自分がある」と公言する。

「仰木さんはアイデアマンであり、名プロデューサーです」と金村は断言する。

「イチローを世に送り出しただけでなく『イチロー』とカタカナ登録名でファンに馴染みやすく注目させたこと。この時佐藤和弘も『パンチ』としています」

 プレーよりも愛嬌が先行するパンチはその後、仰木から非情にも「お前はこれ以上無理やから辞めろ。タレント事務所を紹介してやる」と言われ、素直に従い、第二の人生を成功させている。

 1995年、オリックスの本拠地・神戸はキャンプを直前にして阪神・淡路大震災の直撃を受けた。「こんな時こそ我々が元気を出さねば」と、選手にハッパをかけた仰木はユニフォームの右袖に「がんばろうKOBE」の合言葉を縫い付け、リーグ優勝に導き被災地に元気をもたらした。因みに「イチロー」と「がんばろうKOBE」は流行語大賞だ。今や定着したパ・リーグの予告先発制も仰木の発想。確かにプロデューサーだ。

 2004年仰木は野球殿堂入りを果すが、この時、既に肺ガンで闘病の身であり、同年末に自ら開いた記念パーティーで、「私の生前葬です」と語った。翌年に球団再編で近鉄とオリックスが合併して誕生した「オリックス・バファローズ」の初代監督として指揮を執ることになった際、「新生チームを救うのは俺しかいない」、そして「グラウンドで倒れたら本望だ」と決死の覚悟で挑んだ。リーグ最終戦となった西武ドームでは階段を上ることさえできなかった。そして、その78日後に逝った。仰木はまさに人生のほとんどをグラウンドで終えた。自らの最期までもプロデュースしたのである。

 享年70。仰木が背負っていた背番号は「70」、その数だけ人生を刻んだことになるが、データ通りではあるまい。

デイリー新潮編集部

2019年8月17日掲載

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