欧州の左派は「現実的」日本の左派は「観念論」 中曽根康弘が海外視察で学んだこと

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 先月末、101歳で逝去した中曽根康弘元首相。約5年に及ぶ長期政権を実現する中で、米国のロナルド・レーガン大統領とロン・ヤス関係と称される蜜月関係を築き、日本列島を「不沈空母」のようにするという発言で物議を醸したこともあった。

 はたして、中曽根は外交と安保について、どのような構想を抱いていたのだろうか。それを考えるヒントを提供してくれるのが、東大名誉教授で国際協力機構(JICA)理事長を務める北岡伸一氏の著書『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』(新潮選書)だ。

同書では、まだ日本がGHQ占領下にあった1950年、若き日の中曽根が約2カ月をかけて世界を一周した海外視察について書かれている。以下、再構成して紹介しよう。

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第二の「岩倉使節団」

 中曽根にとって、海外視察は夢であった。その機会は議員になって3年目、1950年にやってきた。6月から8月まで、MRA(道徳再武装)世界大会出席のため渡欧し、各国を視察している。
 
 出発当日、吉田茂首相が一行のうち中曽根ら10名あまりを午餐会に招いてくれた。そのとき吉田は明治4年の岩倉使節団を例に引き、明治建国はここから始まったとして、一行を激励した。

 中曽根もまた第2の岩倉使節団に参加して、日本の復興の先頭に立つという意識を持っていた。惨憺たる敗戦からまだ5年、いかにして独立を回復し、復興するか。その手始めに世界を見ることは、彼らにとって切実な課題であった。

 一行は、フィリピン航空の特別機で羽田を発った。マニラ、カルカッタ、カラチ、イスラエル、ローマを経由して、ジュネーブに到着した。羽田からは42時間かかった。

「理想はスイスだが、現実はドイツ」

 スイスのコーという村にあったMRAの本部には、意外にも日章旗が玄関に掲げられ、各国の人々が日本語で歓迎の歌を歌ってくれた。中曽根は涙が滲んだと回顧しているが、多くの人が同じ感慨を持ったであろう。当時はまだ日の丸の掲揚は原則として禁止されていた時代だった。

 MRA総会は6月16日に始まった。中曽根は17日にインタヴューを受け、「われわれの理想はスイスだが、現実はドイツだ」と述べ、それが18日の新聞の見出しとなっていた。言うまでもなく、スイスは非武装ではなく、武装によって中立を維持してきた国である。中曽根は、一定の軍備を保持し、侵略せず侵略されず、自主独立を保ってきたスイスと、武装を禁じられ、アメリカの占領下にあって、その指示の下に行動せざるをえない日本を対比させていたのである。

冷戦の最前線で自主防衛を期す

 7月6日には西ドイツに入り、ボンでコンラート・アデナウアー首相と会った。アデナウアーは「ドイツは必ず統一する。日本国民の運命も苦しいが、ともに平和に向かって再建しよう」と述べた。そして中曽根の胸の「日の丸バッチ」を凝視して固く握手し、年齢を尋ねた。中曽根が32歳だと言うと、「日本とドイツの再建は青年の力にかかります。お互いにしっかりやりましょう」と言って、立ち去った。

 9日、中曽根はハンブルクから東に向かい、リューベックを越えて、東西ドイツの境界を見に行っている。境界線は、たんに東西ドイツを分かつだけでなく、東西冷戦の最前線になっていた。中曽根はヨーロッパにおける厳しい東西対立を目の当たりにした。自主防衛の必要を痛感するようになったのは、この旅行の見聞が大きいという。

 まもなく、中曽根は再びボンに戻り、アメリカの高等弁務官のジョン・マックロイに会っている。いわば西ドイツのマッカーサーだと中曽根は書いている。マックロイは、尊大なマッカーサーと違って気さくな人柄だった。かつて陸軍次官だったとき、周囲の反対を押し切って日本人2世部隊を作ったが、この442部隊こそアメリカでもっとも功労ある勲(いさお)のある部隊だと述べ、その血の通っている日本青年に期待していると、激励してくれたという。

 一行はフランスを経て、16日、イギリスに渡った。ロンドンでは戦前の駐日大使、ロバート・クレーギーと会っている。依然として親日家だった。また中曽根は労働党政権が5年におよび安定した政治を行っていることに感銘を受け、「欧州の社会主義勢力は極めて現実的、国民的であり日本の左派のように観念論をふりまわさない。この点日本社会党は未成育である」と記している。

アメリカの対日占領を相対化する

 7月22日、一行は大西洋を越えてアメリカに向かった。一行はアイドルワイルド空港(今日のJ・F・ケネディ国際空港)についた。羽田の20倍の広さがあり、3キロ級滑走路が3本、その他、全部で12本という大きさだった。1949年の時点で、アメリカの1人当たり国民所得は1453ドル、2位のイギリスが773ドル、日本は100ドルという有様だった。当時、MRAの影響力は大きく、16台の車をつらねてマンハッタンに入った。

7月25日、一行は国連本部を訪れた。このころの国連は、国連の歴史の中でももっとも緊迫した時期であった。6月25日に北朝鮮が韓国へ侵攻すると、7月8日、トルーマン大統領はマッカーサーを司令官に任命、26日に16カ国が参加した最初で最後の国連軍ができた。ノルウエー出身のトリグブ・リー(初代)事務総長は、その中で、中曽根の一行に会ってくれたのである。午後4時、一行は安保理を傍聴し、オースチン米国国連大使がマッカーサーからの報告書を読み上げるのを聞いた。

 27日、一行はワシントンに向かった。中曽根は、ロバート・タフト、トム・コナリーといった大物にも会っている。また、ワシントンでは、国務省極東課のロバート・フィアリーの自宅に泊めてもらった。中曽根は、フィアリー夫妻が交代で朝食を作ることに驚いている。フィアリーはグルーの個人秘書も勤めた知日派で、中曽根とは同年で、意気投合して日本の将来を語り合ったという。

 8月1日、ワシントンを発った中曽根は、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ、ウエーキ島、マニラをへて、東京に戻った。奇しくも8月15日、敗戦から5年後の夜であった。

 中曽根は海外を回って、冷戦の厳しさを実感し、ドイツと復興を誓い、英仏の疲弊を痛感し、アメリカの力に圧倒された。そして日本に対する評価が高く期待が大きいことを感じ、日本への誇りを再び掻き立てられた。

 あわせて重要だったのは、アメリカの対日占領を相対化する視点を得たことであった。アデナウアーは吉田茂とは違っていた。マックロイはマッカーサーとは違っていた。またフィアリーを通じて、グルーの視点にも触れた。様々な意味で、この欧米旅行は中曽根外交の出発点を作り出したのである。

デイリー新潮編集部

2019年12月16日掲載

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