中曽根康弘が語った戦争体験 核武装を本気で検討したことも

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 中曽根康弘・元首相が亡くなった。101歳。かつて取材で、「何歳まで頑張りますか」との質問に、「暮れてなお命の限り蝉時雨」と、心境を得意の俳句に託し述べていた。連続当選20回。議員在職56年。引退後も積極的に発言を続けていた。政治家としての志の原点は、遠く南の島での戦争体験に遡るという。

中曽根康弘を支えた愛国心

 1947年4月、まだ29歳の青年だった中曽根氏は、「占領中は喪中だ」との考えから黒ネクタイで国会に初登院したという。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに英文の「建白書」を提出し、政策を痛烈に批判。当時から自主憲法制定を訴え、世間の耳目を引く活発さから「青年将校」「若武者」と呼ばれた。

 中曽根氏が内務省から海軍に志願し、戦地に赴いた経歴はよく知られているが、ではそのときに、彼が見たものはなんだったのであろうか。1941年11月、「台東丸」で広島の呉から出航、フィリピンのミンダナオ島ダバオに向かっている。

 中曽根氏の立場は「第2設営隊の主計長」だった。工員2千人を束ね、「敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにする」のが、その使命。パネルや散水車、地雷の撤去に必要な道具、零戦用の爆弾とガソリンを積み込み、14隻(せき)の船団で出航した。工員は民間からの徴用で、〈かなりの刑余者〉がいたという。中曽根氏は前科8犯、親分肌の「古田」を自室に呼び、班長に指名した(以下、〈〉内引用は著書『自省録―歴史法廷の被告として―』より)。

部下を失った戦争体験が原点に

〈「古田、おまえ、ずいぶん天皇陛下に迷惑かけたな。いよいよこれから戦争だ。おれも海軍のことはよく知らないが、おれの子分にならんか。おれも上州は国定忠治(くにさだちゅうじ)の血を受けた人間だ。どうだ」

 そう訊いたら、「へい、なりやす」という。「それじゃあ、おれの杯を受けるか」「いただきやす」となって、従兵に酒を持ってこさせて茶碗(ちゃわん)に入れて出しました〉

 こうして「義兄弟」を得た中曽根氏だったが、ボルネオ島バリクパパンへの移動中に、僚船4隻が撃沈される。さらにバリクパパンへの上陸間際、オランダとイギリスの巡洋艦、駆逐艦が奇襲、魚雷と砲弾の嵐の中でさらに4隻を失った。中曽根氏が乗船していた船は、この攻撃で炎に包まれた。

〈あたりはもう阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図でした。砲煙弾雨の中、梯子段(はしごだん)を降りて懐中電灯で部屋を見ると、みんな手や足がふっ飛んでいる。血だるまになった人間が、「助けてくれ」とうめいています〉

 このとき、中曽根氏は盃を交わした古田班長の臨終を見届けている。古田班長は被弾し、「隊長、すまねえ」とだけようやく口にして、息を引き取ったという。海岸で荼毘(だび)に付した際、中曽根氏はこう詠(よ)んだ。

 友を焼く 鉄板を担(かつ)ぐ 夏の浜
 夏の波 敬礼の列の 足に来ぬ

 中曽根氏の志の源には、この苦い経験があった。

〈美辞麗句でなく、彼ら(戦友)の愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。「私の体の中には国家がある」と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです〉

「2千億円、5年以内…」核武装を本気で検討したことも

 あまり知られていないのが、中曽根氏が防衛庁長官だった1970年、日本の核武装の可能性について、防衛庁内で研究させていた史実だ。中曽根氏はその15年前、衆参両院の原子力合同委員会で委員長を務め、原子力基本法の成立に関わっていた。さらには59年の初入閣では科学技術庁長官を務めている。いわば日本の原子力政策の道筋をつけた人物なのだが、「両刃の剣」の扱いには慎重だった。

〈当時、伊藤博文の孫が防衛庁の技官としてこの問題について一番勉強しているというので、彼をチーフにして専門家を集め、現実の必要を離れた試論として核武装をするとすれば、どれぐらいのお金がかかるか、どのぐらいの時間でできるかといった、日本の能力試算の仮定問題を中心に内輪で研究させたのです〉

 中曽根氏は、日本の「核武装」には一貫して反対の立場をとっていた。国際関係の緊張や、核不拡散条約体制の崩壊をその理由にしていたが、一方でこうした裏付けがあった。

 内部研究の結論は〈2千億円、5年以内で出来る〉というものだったと、中曽根氏は証言している。しかし、「ある条件が満たされれば」、という前置きがあった。

〈ただし、日本には核実験場がありませんでした。フランスにしても国内では実験が出来ないので、国外で実験をやったように、核実験場がないのは大きな問題なのです。もっとも、最近はコンピュータの発達で小型核は実験なしで出来ると言われています〉

 つまり海外なりに核実験場を確保出来れば、日本の核武装は可能だったのである。

こうした歴史の生き証人としての発言・著作は多い。先の『自省録』の編集担当者が明かす。

「自分は歴史法廷に立つ被告なのだと、中曽根さんは口にしていましたね。政治家はその評価をめぐって、歴史に処罰される生き物だと」

 昭和20年秋、廃墟となった東京の焼け野原を前にして、〈この国を建て直すことができるのだろうか。国民は、もう一度立ち上がれるのだろうか〉と考えたという中曽根氏。「この国」は来年、戦後75年を迎える。

デイリー新潮編集部

2019年12月7日掲載

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