追悼「白川勝彦」元自治大臣 創価学会と最後まで闘い、自公連立政権を認めなかった男

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徹底的に潰せ

 真っ向から創価学会批判を繰り広げた白川氏。2000年6月の衆院選では、公明党が白川氏を推薦せず、民主党の筒井信隆氏に敗れ落選した。

 白川氏は、雑誌『フォーラム21』(2007年2月15日号)で、落選した時のことを、次のように書いている。

〈私は新潟6区から自民党公認候補として立候補した。私は自民党が公明党と連立した後も、党内有志と共に「政教分離を貫く会」を設立するなどしてこの連立に反対してきた。だから公明党が私を推薦しないのは構わないし、私も創価学会や公明党の推薦を受けようとは思わなかった。創価学会・公明党は、新潟6区で民主党候補を推薦し、熱心に応援した。(中略)総選挙というのは、与党対野党の政権を賭けた戦いなのである。党の執行部としては、自民党の候補である私を勝たせなければならないのである。連立を組んでいる公明党に対して少なくとも野党候補を推薦・応援することくらいは止めてもらうようにするのが執行部の最低限の仕事である。しかし、当時の自民党執行部は、公明党と一緒になって私を落選させることに汲々としていた。〉

 01年、白川氏は自民党を離党。自ら代表を務める「新党・自由と希望」を立ち上げ、同年7月の参院選に出馬するも、当選は果たせなかった。

 05年5月、白川氏は郷里である新潟県十日町市長選に出馬した際も、創価学会の壁が立ちはだかったという。

「創価学会は、芸能部から久本雅美、岸本加世子、山本リンダを投入して、白川氏の対立候補の応援をしていました。学会を批判する者は、徹底的に潰せというわけですね」(乙骨氏)

 白川氏も『フォーラム21』(同前)で、こう書いている。

〈創価学会・公明党がこの市長選にタレントや国会議員を投入し、白川にだけ入れるなと活動したと聞いた。〉

 結局、市長選では5人立候補した中で、白川氏は4位という散々な結果となった。

 08年から、白川氏は東京・新橋で法律事務所をオープン。弁護士として、多重債務問題を重点的に扱った。

「白川さんと一緒に食事した時には、必ず学会批判、自公連立批判を饒舌に語っていました。論文を書く時は、政治評論家の藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』をよく引用していました。公明党が自民党と連立政権を組んだ時、ナチス・ヒトラーが出た時によく似ている。自民党という右翼ファシズム的要素と、公明党の宗教的狂信的な要素で癒着関係ができ、それがファッショ的傾向に持っていく起爆剤になるという見方です」(同)

 乙骨氏が白川氏と最後に会ったのは、2016年の暮れだった。

「新橋の事務所で原稿の依頼でお会いしたのですが、自公連立が延々と続くことに対して、『学会はしぶとい。自民党の中で安倍首相を批判する議員はいないのか。根性がないな』と。彼は、一日に何箱もタバコを吸うヘビースモーカーでしたが、翌17年の春に心臓病で倒れています。半年ほど療養生活を送ったようですね」

 白川氏のWEBサイトにある「永田町徒然草」では、今年の元旦にこう綴っていた。

〈実に、1年2ケ月ぶりの永田町徒然草となります。この間、心筋梗塞がいろんな形であらわれ、永田町徒然草のupdateができませんでした。とりわけ、昨夏の熱さ(ママ)には参りました。身心共に、不都合となりました。現状は、この不都合と闘いながらリハビリに励んでおります。世界的に“狂”が主流となり、心が痛まない筈がありません。これに一矢を報いるべく、身心を整え、発信してゆきたいと思っています。〉

 これが最後の「永田町徒然草」だったが、自公連立政権が発足して20年。白川氏はこの状況を泉下でどう考えているのだろうか。

週刊新潮WEB取材班

2019年12月2日掲載

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