中曽根康弘元首相を偲ぶ 大韓航空機撃墜事件でソ連を追い詰めた「ジャパニーズ・テープ」

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機密指定解除「NAKASONE」ファイル(1)

 11月29日、中曽根康弘元首相が亡くなった。享年101。1982年から5年間続いた政権は、強固な日米同盟を築いたことで知られる。83年9月の大韓航空機撃墜事件でも両国は見事な連携を見せた。あれから三十余年。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が米国のレーガン大統領図書館に眠る公文書をひもとき、「ロン・ヤス」関係の真実に迫る(週刊新潮18年1月18日号より再掲載)。

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 過去の歴史を振り返ると、たった一つのごく短い言葉が世界の流れを変える引き金となった事例がある。今から三十数年前に録音された極秘の音声テープ、その中の「目標は撃墜された」という言葉もその部類だったのかもしれない。

 昨年来日したドナルド・トランプ大統領は安倍晋三総理とファーストネームで呼び合い、ゴルフを楽しんだが、そんな2人をマスコミは「ドナルド・シンゾー」関係などと書き立てた。この報道を目にしてどうしても思い出すのが、今から30年余り前、当時のロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘総理の所謂(いわゆる)、「ロン・ヤス」関係である。

 就任間もない1983年1月に訪米した中曽根はワシントンで初の日米首脳会談に臨み、この時にレーガンは一目で日本の新総理を気に入ったという。

「朝飯か、レーガンとの内輪の食事をした時に、レーガンが私に『私のことをこれからはロンと呼んでくれ、貴方をヤスと呼んでいいか』と言うので、『イエス・サー、OKだ』と答えて、ファーストネームで呼び合うようになりました。レーガンが命名した『ロン・ヤス』という略称は、ホワイトハウスと官邸に新しい関係ができたことをアピールするために積極的に広めました。日米首脳間で、ファーストネームで呼び合う仲というのは歴史上初めてだった」(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』新潮社)

 折しも80年代初めの日本はバブル景気に向かい始め、その膨張する経済力は米国と深刻な摩擦を引き起こしていた。その中で「ロン・ヤス」関係は日米のトップを強い絆で結び、関係改善に大きく寄与したとされた。

「ジャパニーズ・テープ」の機密報告

 よく知られているように、米国では一定の期間を経た公文書は機密指定を解除される。レーガン政権の記録を保管するのはカリフォルニア州シミバレーにあるレーガン大統領図書館だが、昨秋ここを訪れた際、私は“中曽根ファイル”とも言うべき大量の文書を入手した。ホワイトハウスや国務省、CIA(中央情報局)などが作成した物で、そこには彼らが対日政策を練る過程が生々しく残っていた。

 また80年代は東西陣営が核兵器を携えて睨みあう冷戦の時代だったが、そこで世界に日本の存在を知らしめたのが269名の命を奪った大韓航空機撃墜事件である。そして撃墜の責任を回避するソ連を追い詰めたのが、「ロン・ヤス」関係で日本からもたらされた宝石のようなインテリジェンスだった。

 1983年9月1日の午前3時半頃(日本時間)、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空007便ボーイング747型旅客機がサハリン沖上空で突如、消息を絶った。その後、同機が予定された航路を大きく逸れてソ連領空を侵犯し、迎撃したソ連戦闘機によりミサイルで撃墜された事が明らかになった。これにより日本人28名を含む乗員・乗客の269名全員が死亡、民間航空機では最大級の悲劇として世界を震撼させた。

 事件発生直後よりワシントンには世界中から情報が寄せられたが、国務省が9月5日に作成した機密報告が手元にある。ソ連や各国政府の反応、乗客の捜索状況など最新のインテリジェンスを記載した文面で、その中に「ジャパニーズ・テープ」(日本の音声テープ)という項目があった。

「ソ連機パイロットの交信テープを国連安保理に提出させるとの当方の要請を日本政府は最高レベルで承認した。だが、もしソ連が火曜日の安保理会合前に撃墜の責任を認めた場合は立場を変えるかもしれないという。日本政府は大統領が月曜夜に行う演説でテープに触れる事にも異存はない」(国務省オペレーション・センター報告、第10号)

 この時点でソ連はまだ撃墜の事実を認めておらず、それどころか機体の形が似た米軍の電子偵察機RC-135との誤認を示唆し責任転嫁とも言える態度を取っていた。それを覆したのが日本の防衛庁だった。

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