中曽根康弘元首相を偲ぶ 大韓航空機撃墜事件でソ連を追い詰めた「ジャパニーズ・テープ」

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見事な連携プレー

 海を挟んで国境を接する北海道の稚内、根室などには最新の技術を備えた自衛隊のレーダーサイトや通信傍受施設がある。「ウサギの耳」と呼ばれる部隊は24時間体制でソ連機の航跡や地上基地との交信を監視、傍受し、そこには当然ミサイルを発射したスホーイ戦闘機も含まれた。それは直ちに東京の総理官邸に届けられ、後に中曽根は当時についてこう証言している。

「大韓航空機事件を知ったのは、その日の午前4時頃でした。午前6時頃に、私は外務省、防衛庁からも報告を受けた。事情が正確に把握できたのは昼頃でした。夜中になって、やるなら思い切ったことをやらないと駄目だと考え、自衛隊が傍受していたソ連の戦闘機と樺太の基地との交信記録を米側に提供することを、早期に決断しました。交信記録を私の手元に持ってきたのは、内閣調査室でした。ところが、防衛機密保持の上から、後藤田官房長官や防衛庁の幹部は提供に消極的でした」(前掲書)

 ソ連の欺瞞を突き崩す切り札とも言えた音声テープだが、じつはそれを公にするのは日本にとって両刃の剣だった。というのは、日本が傍受しているのを知ったソ連は直ちに周波数を変えたり通信連絡網を組み替えるなどの対応策を取る。そうなれば今までのような傍受は不可能となり、機能回復までに数年を要するかもしれない。いわば交信記録の暴露は自分も痛手を負う「ハチの一刺し」だったが、中曽根は躊躇しなかった。

「私はソ連を全世界の面前でやっつける絶好のチャンスだと思い、交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、この場合には損はないと考えたのです。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する意味もありました。レーガンに知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはないと、私は反対意見を押し切って、機密情報をアメリカに渡しました」(前掲書)

 そして一旦公表すると決めると、日米は見事な連携プレーを見せた。9月6日の午前8時半(日本時間)、東京の後藤田正晴官房長官は緊急記者会見を開いて傍受記録の一部を発表し、ソ連に撃墜を認めるよう求めた。すると、そのわずか30分後にレーガン大統領がホワイトハウスの執務室から全米にテレビ演説を行い、ソ連の行為を「人道に対する罪」と非難し制裁措置を発表した。この席でわざわざソ連機のパイロットの会話を聞かせるという芸の細かさで、両国の連携ぶりは危機を通じて発揮された。

ソ連を追い詰めた一幕

 9月10日、ジョージ・シュルツ国務長官は駐日米国大使館に緊急の暗号電報を送っている。国務省の言語専門家がテープ解析を続けた所、聞き落としていた重大な箇所に気付いたという。電子技術で雑音を消した音声を聞くと、ミサイルを発射する直前に「機関砲を連射する」という声が入っており、それを知った米国政府関係者は真っ青になった。なぜならソ連は領空侵犯機に曳光弾による警告射撃を行ったと主張し、米国側の言い分と真っ向から対立していたからだ。

 緊急電報でシュルツ長官は、「わが方の信頼性の観点からも、この新情報は速やかに公表すべきだ」とし、米側が用意した声明案を日本側に渡して翌11日の午前9時(米国東部時間)までに公表すべしと伝えた。すると防衛庁の防衛局長は11日の午後10時過ぎ(日本時間)に記者会見を開いて日米の分析結果を発表、これは時差の関係上、米側が指定したのと全く同じタイミングであった。

 そしてこのテープはニューヨークの国連安保理の会合で存分に威力を発揮する。議場に設置された5台のテレビ画面にはソ連機の交信の音声とテロップが流され、ミサイル発射後に「目標は撃墜された」という声が響くと議場は息を呑んだように静まり返った。有無を言わせぬ証拠を突きつけられて、ソ連もようやく民間機撃墜を認めたのだった。

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