祝・巨人優勝 原辰徳・貢親子との会食エピソードを思い出す【柴田勲のセブンアイズ】

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 巨人が5年ぶりのリーグ優勝を飾った。まずは原辰徳監督に「優勝おめでとう」と祝福したい。胴上げでは泣いていた。胸に熱く迫るものがあったに違いない。

 私も巨人のOB会会長として会員みんなの前で「巨人が優勝しました」とあいさつができる。2014年オフからOB会会長を務めているが、今年ついに実現する。

 開幕前、原監督に「頼むよ」とお願いしていたが、私は3度目の就任となった原監督の野球の運、それも強運を信じていた。原監督は東海大から80年のドラフト会議で巨人を含む4球団競合の末に、新監督の藤田(元司)さんが1位クジを引き当てた。

 翌年、巨人は藤田監督の下で73年以来の日本一となり、原監督は新人王を獲得した。

 いまも覚えている。原監督の入団前だ。藤田さんから「今度、原と原のおやじさんと食事をするから同席してほしい」と声を掛けられた。

 原のおやじさん、言うまでもなくアマチュア球界の名指導者だった貢さんだ。原監督とは当時「親子タカ」として知られていた。

 貢さんが私の同席を希望したそうで、4人で食事をした。その最中、貢さんが私にこう尋ねた。「ウチの辰徳、年俸が800万円ですが、安くないですか?」

 球団が原監督に提示した1年目の年俸は800万円だった。貢さんは続けた。「私もボーナスなどを入れて(東海大学から)800万円近くもらっています」

 いまの時代、ドラフト1位で入った息子の年俸がおやじと同額では忍びないというのである。

 プロ野球は野球をやる者にとっては憧れの世界だ。要するにもっと「夢」と「希望」を与えてほしい。こういうことだった。

 この話が藤田さんから球団に伝わり、急きょ倍の1600万円を提示した。金銭うんぬんよりも貢さんのプロ野球に対する思いが伝わる。

 もう1つ。貢さんは布団に入って目をつぶると、選手起用・采配などいろんな考えが頭に浮かんだという。「これがね、寝て起きると、すっかり忘れてしまっている」そこで一度起きて、必ずノートにメモを取る。それを毎朝、新鮮な気持ちになって読み返したという。

 時に考え直し、時に新たな発見やアイデアが浮かんだと思う。

 私が推察するところ、原監督はおやじさんと同じことをやっていたに違いない。優勝までさまざまなことがあった。

 投手陣は総動員態勢で、シャッフルも行った。桜井俊貴の先発転向、中川皓太を我慢して使い続けた。大竹寬、田口麗の中継ぎへの転向など打てる手を次々と打った。打撃陣では2番・坂本勇人、3番・丸佳浩、4番・岡本和真をほぼ固定して臨み、山本泰寬、若林晃弘、田中俊太、増田大輝、重信慎之介、石川慎吾ら若手の調子を見極めながら起用した。

 彼らもよく期待に応えた。優勝を決めた試合で増田大が決勝打を放ったのはその象徴だった。

 外国人選手らに対しても分け隔てなく接した。

 プロ野球ファンに夢と希望を届けたい。熱い思い、さらに練りに練った戦略があった。

 これは父・貢さんからしっかりと受け継いだものだろう。

 原監督の胴上げを見ながら、会食の記憶とともに、こんな思いを巡らした次第である。

注:原監督は2002年に巨人監督に就任して、03年に一度は退任したが、06年に復帰。15年退任。19年から3度目の監督就任を果たした。監督通算13年でリーグ優勝8回、日本シリーズ優勝3回の実績を持つ。正力賞3回、09年WBCでは日本代表監督として優勝。18年に野球殿堂入り。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長、14年から巨人OB会会長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年9月24日掲載

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