わざと食べられに行く!? 猫を怖がらないネズミを作るトキソプラズマの高度な感染方法【えげつない寄生生物】

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ネズミにも猫にも人間にも感染するトキソプラズマ

 トキソプラズマとは、アピコンプレックス門コクシジウム綱に属する寄生性原生生物の一種です。幅2~3マイクロメートル、長さ4~7マイクロメートルの半月形の単細胞生物で、人間やネズミを含むほぼ全ての哺乳類・鳥類に寄生してトキソプラズマ症を引き起こします。

 この寄生虫はネズミにも猫にも人間にも感染することがありますが、人から人に感染することはありません。人間が感染するのはトキソプラズマのシスト(膜で包まれた休眠中の原虫)で汚染された動物の生肉を食べた場合と、感染猫のフンやそれが混ざった土などと接触した後に経口感染した場合です。

 口から入ったトキソプラズマは、消化管壁から細胞内に侵入すると2分裂を行いながら活発に増殖します。体内に侵入された人の体もトキソプラズマを排除するため、免疫応答を開始します。すると、トキソプラズマは中枢神経系や筋肉内で組織シストと呼ばれる形態になります。組織シストは安定した壁に覆われているため、トキソプラズマは免疫系の攻撃を受けずに生存を続けることができるのです。

 しかし、トキソプラズマに感染したとしても健康な人であれば症状は出ないか、出たとしても、かぜのような軽い症状だと言われています。唯一問題となるのは、妊娠中に初めて感染した場合で、トキソプラズマが胎盤を通過し胎児に移行して、胎児が感染すると、脳や目に障害が出ることがあります。

 世界では3分の1もの人がこの寄生虫に感染しており、日本では約10パーセントの人が感染していると言われています。

 ほぼ全ての哺乳類・鳥類が感染するトキソプラズマですが、それらは中間宿主であり、最終的に到達して生殖をおこなうことができる終宿主は1種です。その生物とは「猫」です。つまり、猫への移動手段として人やネズミなどの哺乳類を媒介に用いているのです。

ネズミの行動を操作して猫に食べられやすくする?

 トキソプラズマは人間やネズミなどの中間宿主の体内で生育が終わって生殖をおこなえる段階になると、終宿主である猫に移動して、有性生殖をおこないます。つまり、成長段階に合わせて、寄生する宿主を変えなければ成長したり、繁殖したりできません。

 そのため、トキソプラズマは成長期に体内でお世話になった中間宿主であるネズミから猫の体内に移動するため、感染したネズミが猫に食べられやすくなるように行動を変化させているのです。

 これまでの研究では、トキソプラズマに感染したネズミは、猫に食べられやすいように反応時間が遅くなり、猫の尿の匂いに誘われるようにして徘徊し、無気力になり危険を恐れなくなることが知られています。最近まで、なぜネズミの行動がこのように変化するのかは謎とされてきましたが、2009年にイギリスの研究チームがこの謎を解く手がかりを発表しました。

 トキソプラズマのDNAを解析した結果、トキソプラズマには脳内物質のドーパミンの合成に関与する酵素の遺伝子があることを突き止めたのです。ドーパミンとは快楽ホルモンと呼ばれるほど快楽、探索心、冒険心に強く影響する脳内物質です。つまり、この原虫に寄生されたネズミはドーパミンを分泌するため、恐怖がなくなり、自信と冒険心をもって行動し、猫を恐れず大胆不敵に行動するようになったと考えられています。

脳に侵入するトキソプラズマ

 トキソプラズマがどのようにしてネズミの行動を操作しているかについては、さらに研究が進められ、宿主の免疫細胞に乗って、宿主の脳内に移動しているということがわかりました。

 先に説明したように、トキソプラズマは経口摂取によって感染が起こります。宿主側もただ侵入を許すわけではなく、通常、口から侵入した寄生虫や病原菌は宿主の免疫機構によってすぐに排除され、感染が全身に広がらないようにします。しかし、トキソプラズマは、宿主の口から侵入し、全身に広がり、脳を乗っ取るのです。

 実は脳にまで達する寄生虫や病原菌というのはとても稀です。脳は動物にとって中枢であり、大変大切な部分であるため、脳を守るために血液脳関門という脳のバリアーがあるからです。脳以外の毛細血管では、細胞同士の間に大きな隙間があり、大きな分子も通過できますが、脳の毛細血管は内側の細胞がギッシリ並んで隙間がなく、アミノ酸・糖・カフェイン・ニコチン・アルコールなど一部の物質しか通さない機構が備わっています。そうして、大きな分子、病原菌、寄生虫などの有害物質から脳を守っているのです。

 しかし、トキソプラズマは脳に侵入することが可能です。その方法の全貌はまだ明らかになってはいませんが、その一部が2012年、スウェーデンのカロリンスカ研究所感染症学センターに所属する研究者、アントニオ・バラガン氏のチームによって示されました。

 この研究チームがトキソプラズマに感染している実験用マウスを調べたところ、寄生虫などを攻撃して殺すはずの免疫細胞内にトキソプラズマが生息していることを発見しました。この免疫細胞は白血球の一種で、樹木に似た形状から“樹状細胞”と呼ばれています。樹状細胞は通常は免疫系の門番としての役目を果たしています。しかし、トキソプラズマは、本来寄生虫を排除する機能を持つ免疫細胞を使って宿主の体内を移動し、ついには宿主の脳にまで到達していました。

 しかし、どのようにして免疫細胞を乗り物にしていたのでしょうか。免疫細胞は刺激を受けない限り動きません。トキソプラズマが操縦できるわけでもなく、樹状細胞は感染していることにさえ気づいておらず静かにしています。では、何が樹状細胞を動かしていたのでしょうか。

 研究チームが詳しく調べた結果、GABA(ガンマアミノ酪酸)という脳内物質が関係している証拠が得られました。GABAはブレーキの役割を果たす抑制性の神経伝達物質として、多くの脳機能に関わっている物質です。某大手の菓子メーカーから同名の商品が発売されており、GABAを含んでいるそのチョコレートを食べると心が落ち着き、抗ストレス効果、リラックス効果があると宣伝されています。しかし、口から摂取するGABAは脳に直接は作用しません。脳の毛細血管に存在する血液脳関門をGABAは通過できないからです。先に述べたように、脳内に侵入するには血液脳関門を通り抜けなければなりませんが、口から摂取するGABAは分子量が大きすぎて通り抜けることができません。脳内に存在するGABAは、血液脳関門を通過できるアミノ酸の一種、グルタミンなどから脳内で合成されているものなのです。

 話が少し逸れましたが、トキソプラズマに感染した宿主の樹状細胞からはこの脳内物質であるGABAが見つかりました。つまり、樹状細胞がトキソプラズマに感染すると、樹状細胞がGABAを分泌し、それが同じ樹状細胞の外側にあるGABA受容体を刺激し、トキソプラズマに感染した細胞の移動能力が活性化されることが、培養細胞を使った実験で明らかになりました。一方、薬剤によってGABAの産生を抑制すると、トキソプラズマに感染した樹状細胞の移動能力は高まらず、その結果、脳へ侵入するトキソプラズマの量も減少することが分かりました。

 これらの結果から、トキソプラズマは感染した樹状細胞にGABAを強制的に作らせ、GABAによって全身への移動が可能になり、脳に達し、脳を操るという可能性が示唆されました。

 GABAは抑制性の神経伝達物質であるため、GABAの量が増えると、リラックスし、恐怖感や不安感が低下する。トキソプラズマに感染すると宿主の恐怖感が減少するのは、感染した免疫細胞が脳内へ移動しGABAの濃度が高まるためであると考えられています。

 このように、目に見えないほど小さな微生物であるトキソプラズマは宿主の行動変化をおこさせ、自分の都合の良いように操るという非常に高度な技をもっています。実はこの行動操作はネズミだけではなく、人間にさえ起きているようなのです。そのお話はまた次の機会に。

※参考文献
Berdoy, M., Webster, J.P., Macdonald, D.W. (2000) Fatal attraction in rats infected with Toxoplasma gondii. Proceedings of the Royal Society B:Biological Sciences 267: 1591–1594.
Fuks, J.M., Arrighi, R.B., Weidner, J.M., Kumar, Mendu S., Jin, Z., Wallin, R.P., Rethi, B., Birnir, B., Barragan, A. (2012) GABAergic signaling is linked to a hypermigratory phenotype in dendritic cells infected by Toxoplasma gondii. PLoS Pathogens 8: e1003051.

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次回の更新予定日は2019年10月18日(金)です。

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成田聡子(なりた・さとこ)
2007年千葉大学大学院自然科学研究科博士課程修了。理学博士。
独立行政法人日本学術振興会特別研究員を経て、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センターにて感染症、主に結核ワクチンの研究に従事。現在、株式会社日本バイオセラピー研究所筑波研究所所長代理。幹細胞を用いた細胞療法、再生医療に従事。著書に『したたかな寄生――脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』(幻冬舎新書) 、『共生細菌の世界――したたかで巧みな宿主操作』(東海大学出版会 フィールドの生物学⑤)など。

2019年9月20日掲載

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