私は人殺しですか――オウムでサリン製造「土谷正実」未亡人が明かした最期の肉声

社会週刊新潮 2019年7月11日号掲載

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唯一の心残りは…

 その裏には「孤独」があったのかもしれない。オウムの死刑囚は、井上嘉浩しかり中川智正しかり、親族と最期まで交流を持っていたケースが少なくない。しかし、土谷の場合、両親はかつて息子を教団から取り戻そうと茨城県内の寺に“監禁”を試みたことがある。あの上祐史浩が奪還に動くなどし、結局、彼は寺から脱出。親の元に帰ることはなくそのまま出家したが、

「それ以来、家族から捨てられたという思いはずっと持っていたようですね。息子がおかしな宗教に没頭していれば、連れ戻そうとするのは当然だと思うのですが……。寺のお坊さんが“出て行こうとするならこの子を殺すしかない”と言った際、お母さんは“殺すなら私が殺す”と言った。そのことをいつまでも恨んでいました。お母様にも思うところはあるようでついに一度も面会には来られませんでした。実は、私は一度、実家に伺って“本人に会ってやってください”とお願いしたことがある。わだかまりを解いて逝ってほしいと思っていたんです。でも、1時間ほど話したでしょうか、最後まで拒絶されたままでした。主人のお父様は事件後、60代の若さで亡くなり、妹さんも結婚されなかった。お母様はそれを事件のせいだと思っていて“お父さんを殺したのはあの子なんだから”“娘が結婚できないのもあの子のせい”“息子とは思っていない”と。諦めました。別の知人も何度もお母様に頼んでみたのですが、やっぱりダメでした。結局、生前も執行後も一度も連絡はないままです」

 これもまた、特異な生き方であろう。

 その土谷も、最期は従容として死に赴いたという。

「いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 新実、土谷両人の遺骨は墓には入(い)れず、未亡人の手元に残ったままだという。

 この7月6日で執行からちょうど1年。来年3月には、地下鉄サリン事件から四半世紀の節目を迎える。

 戦後史に残る重大犯罪に名を連ねた両名だが、その最期を見れば、令和の世に重い“教訓”を残していった、と言えるのかもしれない。

特集「オウム『新実智光』『土谷正実』 未亡人が明かした『最期の肉声』」より

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