今日で中森明菜“自殺未遂事件”から30年、封印されていた真相に迫る

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 歌手の中森明菜(53)がまた消えた。明菜は体調不良のため、2010年から活動を休止し、2014年の大晦日の「紅白歌合戦」(NHK)から活動を再開したものの、2017年末のディナーショー以来、また表舞台から姿を消したまま。とはいえ、危ういところも明菜の魅力。それを広く世間に知らしめたのは、ちょうど30年前の自殺未遂事件だった。封印されていた「真相」に迫る。=文中敬称略=

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 1989年7月11日夜、東京・六本木の自宅マンションに帰った近藤真彦(54)は全身の血が凍り付いたのではないか。浴室に恋人の明菜が血まみれで倒れていたのだから。

 明菜は左腕の内側を刃物で切っていた。近藤の自宅で命を絶とうとしたのである。近藤は24歳で、明菜は23歳。ともに人気アイドルだったので、空前の騒ぎとなった。

「動機については当時、『所属事務所の研音との不協和音』や『家族問題』などとも言われましたが、これらは近藤へのダメージを和らげるための配慮でしょう。やはり理由は近藤との関係しか考えられなかった。当時の近藤はモテたから、いろいろな女性から秋波を送られていた。その中には明菜がライバル視していた松田聖子もいた。近藤との関係がぐらぐらと揺れ動いていることに明菜は苛立ち、不安定な状態だった」(ベテラン芸能ジャーナリスト)

 二人はともに人気者だったが、収入はCDの売り上げで勝る明菜のほうが上。このため、明菜は近藤が夢中だったカーレースの経費を援助していたという。明菜は相当、近藤に入れあげていたのである。ただし、近藤のほうはというと・・・。芸能界の恋愛に限らず、若い男女にありがちな構図だった。

 その後、事態は明菜が考えていなかっただろう方向に進む。幸い明菜は一命を取り留めたものの、近藤が芸能生活のピンチに立たされたのだ。

「恋人を自殺未遂に追い込んだ男」という最悪のレッテルを貼られてしまったのである。自殺未遂後の明菜は休養に入ったが、近藤もまた仕事どころではなくなった。

「明菜を復帰させなくてはならないが、近藤も活動できるようにしなくてはならない。このため、明菜の事務所の研音、所属レコード会社のワーナー・パイオニア、近藤が所属するジャニーズ事務所で話し合い、『明菜に記者会見をさせる』ということになった」(会見を生中継した当時のテレビ朝日関係者)

 会見日時は同じ1989年の大晦日午後10時に設定された。「年を越さないうちに区切りをつけてしまったほうがいい」という判断からだった。また、同じ時間帯の「紅白歌合戦」に一泡吹かせたいというテレ朝の思惑もあった。

 とはいえ、実はテレ朝にはほかに乗り越えなくてはならない壁があった。この時間帯はジャーナリスト・田原総一朗(85)が司会を務める討論番組の放送枠だったのだ。硬派な田原の番組が、芸能スキャンダル絡みの記者会見によって削られてしまう形になる。田原の了解が不可欠だった。

 水面下で田原氏と交渉したのは当時の取締役編成局長・小田久栄門(故人)だった。「テレ朝のドン」と呼ばれた男だ。会見生中継の責任者は、後に編成本部副部長などを務める皇達也氏(78)。この人もまた大実力者だった。

 テレ朝内の準備は済んだ。しかし、肝心の明菜の説得がようやく終わったのは会見の数日前。自殺未遂後は半ば隠遁生活だったので、表舞台に出たがらなかったのだ。

 当時から現在に至るまで、「会見を渋った明菜がそれを最終的にOKしたのは、周囲から近藤との婚約発表だと騙されていたため」との説がまことしやかに流布されている。だが、それは到底信じられない。怪情報に違いない。

 関係者は一様に明菜を騙したことを否定するし、そうであるなら辻褄が合わないのだ。報道機関でもあるテレ朝が、スポンサーを含めた社内外に対し嘘をつくわけにはいかないし、それをやったら、大問題に発展しただろう。

 近藤とツーショットで行われた会見の席上の背後に、金色にも見える仕切りがあり、また、明菜と仕事上の接点があった女性がそう吹聴したので生まれた怪情報だろう。当の明菜自身はモスグリーンの地味なツーピースで、晴れがましい席の服装ではなかった。

 明菜も会見でこう語った。

「皆さん、生きていらっしゃる限り、一人一人いろんな悩みを抱えていると思います。それを一生懸命がんばって、乗り越えている方が大勢いると思います。私も自分なり必死に耐えましたし、頑張ってきたつもりですけど、勝手でわがままな行動に出てしまい、ご迷惑とご心配をお掛けしてしまいました。深くお詫びいたします」(明菜の会見の言葉)

 動機についての説明と近藤の部屋を選んだことの理由を求められると、こう答えている。

「私が仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった。(一番信頼できる近藤のところで死のうとしたが)今になって思うと、なんてバカなことをしたのかと」(同・明菜の会見の言葉)

 視聴率は瞬間最高で17%を超えた(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。もちろん紅白の裏番組では最高だ。もっとも、前出の皇は明菜が会見場に現れるまでは不安で、「来なかったら、責任をとって辞めるつもりだった」と振り返っている。ここでも婚約発表などという嘘がなかったことが裏付けられる。

 一方、やはり前述の小田は、のちに田原から「これぞテレビだよ」と告げられた。1989年で最大の芸能ニュースは明菜の自殺未遂だったのだから、それについて大晦日に伝えるのはテレビにとって本懐ということである。

 さて、この会見は明菜にとっての大きな転機だった。1982年のデビューから所属していた研音を、会見直前の12月28日離れ、個人事務所・コレクションを設立したのである。明菜を大功労者と考える研音がお膳立てした。

 だが、歯車は音を立てて狂いはじめていた。

 会見後、明菜は近藤と没交渉に。そして近藤は1994年6月、一般女性と結婚している。

「研音は明菜をコントロールできなくっていたが、一方で新事務所もうまくいかなかった。明菜はワーナー・パイオニアの助言にも耳を貸さなくなっていた。彼女のCDはセルフプロデュースのような状態になってしまった。それでは売れない。だから、ヒット曲に恵まれないようになっていった」(元レコード会社幹部)

 実際、「飾りじゃないのよ涙は」(1984年)「DESIRE―情熱―」(1986年)など明菜の大ヒット曲は自殺未遂前の80年代に集中しているのである。。

 明菜を知る別の芸能事務所社長が語る。

「天才肌なので仕方がないところもあるが、厳しい指導や助言を口にする人を嫌がる。勿体ない」

 一方、私生活はというと、近藤は子供も生まれて幸せに暮らすのに対し、明菜はマネージャーや神主と浮き名を流したくらい。ひょっとしたら、やはり会見が境目で、近藤との恋愛と失恋で燃え尽きてしまったのだろうか。

 明菜は2017年11月、カバーアルバム「Cage」(ユニバーサルミュージック)とオリジナルアルバム「明菜」(同)を発売し、同12月にはディナーショーを行ったものの、その後は活動を行っていない。

「またコントロールできない状態になっている。日本と海外を往き来しているようだ」(前出・元レコード会社幹部)

 今年5月27日には妹の明穂が52歳の若さで病死したことを一部写真週刊誌が報じた。だが、通夜や葬儀に明菜は姿を見せなかった。そもそも明菜は会見以後、家族と疎遠になってしまっている。

 明菜の孤独はいつまで続くのだろう。

高堀冬彦/ライター・エディター

週刊新潮WEB取材班編集

2019年7月11日掲載

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