高齢ドライバー増加、「信号」を信じられますか(古市憲寿)

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 中国の成都へ行ってきた。パンダで有名な街だが、市内だけでも人口1100万人を超える大都市である。

 驚いたのは信号の少なさだ。6車線もあるような幹線道路でも、平気で信号がなかったりする。一応、横断歩道らしき目印はあるが、それも非常に簡素なもの。地元の人々は、信号や横断歩道に関係なく、うまく自動車やバイクを避けながら道を渡っていく。

 友人に驚きを伝えると「信号なんて信じると余計危ないでしょ」と言われた。いくら歩行者が律儀に信号を守ったところで、自動車が交通ルールを守ってくれるとは限らない。だから信号よりも自分の感覚を信じろということらしい。

 一理あると思う。最近の日本では、悲惨な交通事故が報じられることが多い。

 実際には、交通事故死亡者の数は激減している。列島中が交通戦争の最中にあった1970年は、実に1万6765人が交通事故で命を落とした。その数は2018年には3532人にまで減っている。

 しかし殺人を含めた凶悪犯罪が減少し、治安もよくなった現代日本では、相対的に命の価値が上がっている。いくら激減したとはいえ「3532人」という死亡者数は、決して少ない数字には思えないだろう。

 ニュースが伝えるのは、何の落ち度もない歩行者が犠牲になった事故だ。きちんと交通法規を守っていた犠牲者に、一切の責任がないのは言うまでもない。

 しかしこれからは、そうも言っていられない時代が来る可能性がある。再び交通戦争の時代が訪れることはないだろうが、超高齢社会を迎えた日本では、高齢ドライバーの事故に遭遇するリスクは必然的に高まる(タクシーも高齢ドライバーの運転によくひやっとする)。その場合「こちらが信号を守っているから安全」ということにはならない。

 かつて留学していたノルウェーでは、あらゆる場所で歩行者優先が徹底されていた。横断歩道さえない道路でも、歩行者が少しでも道路を渡る素振りを見せれば、車はすぐ止まってくれた。友人曰く「ノルウェー人は海外で交通事故に遭う確率がすごく高い」。

 普段、恵まれた環境にいる人ほど危険に耐性がない。交通事故に限らず何にでも言える話だと思う。

 だけど、信号さえ信じていれば事故に遭わない社会と、信号さえも信じられない弱肉強食の社会、どちらがいいかといえば前者だろう。誰もがぼんやりと生きていける社会は幸福だ。しかし人々が「ぼんやり」できるのは、それだけ社会に強度があるから。

 強靱な安定ぶりを誇っていた日本は、少しずつ過去のものになりつつある。だからといって、安定した社会への復古を目指すのは間違いだ。幸いにも現代人たちは、昭和時代にはなかった数々の新技術を手にしている。交通に関していえば、危険な人間の代わりに、自動運転技術の普及は部分的な解決策にはなるだろう。

 その上で、信号を信じるかどうかは個人の判断。信号制度の無謬性、あなたはどれくらい信じられますか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年5月30日号掲載

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