60年前、英国は天皇陛下の御成婚をどう見ていたか 機密文書に残る秘話

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「政治的成功」

「問題は、皇太子と裕福な実業家の娘の結婚が、皇室の長期的な地位向上に貢献するかという点である。2人への過度な賞賛は映画スターを連想させ、平民を(妃に)選んだことは、民主的とはいえ、神格性に打撃を与えるとする者もいる」

「だが、この結婚が国民に歓迎されているのは間違いない。魅力と知性を備えた健康な皇太子妃を、世論はシンデレラのように賞賛している。正式な妃選定は一皇室会議が行うが、皇太子が彼女とテニスコートで出会い、自ら電話でプロポーズしたと広く伝えられた。こうした中、世論調査で87パーセントが結婚に賛成し、反対はわずか4パーセントなのは驚くことではない」

「天皇を時代遅れとする傾向は、若い日本人で最も強いとされる。しかし、魅力的な平民と皇太子の結婚は、この世代に最もアピールし、事実上、天皇制に反対する左翼の鼻をあかす効果をもたらした。新憲法の精神に沿う、民主的かつ人気ある結婚に反対するのは困難である」

 当時は東西冷戦下、自由主義陣営と共産主義陣営が各地で対立していた。
 
 ご成婚3年前の1956年には、ハンガリーの民衆蜂起をソ連軍が制圧する「ハンガリー動乱」が起き、2年後には、軍事クーデターでイラクが王政廃止、新政権はソ連と国交を樹立していた。
 
 わが国も保守・革新両陣営に分かれて、天皇制打倒を叫ぶ一部勢力も存在した。
 
 ロシア革命のロマノフ王朝はじめ、20世紀に入って消滅した王室も数多く、そうした中、モーランドは美智子妃を、左翼陣営への強烈な打撃と見たようだ。
 
 この報告は、ご成婚を機に昭和天皇が退位する噂にも触れている。じつは終戦以後、天皇退位の情報はしばしば流れてきた。
 
 例えば東京裁判で判決が出た1948年、講和条約が調印された1951年、天皇退位の噂が流れ、在京外交団は確認に奔走した。
 
 前者の場合、当時のアルバリー・ガスコイン駐日英国代表が、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官に直接問い質したくらいだ。
 
 そして、1959年のご成婚の際も同様の噂が流れたが、英国はその真偽を冷静に見極めていた。

「天皇が聞もなく退位し、皇太子が継承するとの噂を裏付ける証拠を、自分(注・モーランドのこと)は持っていない。岸総理も公然と否定した。(皇太子夫妻の)新宮殿が建設中であり、この噂は根拠がないと思われる。いずれにせよ皇太子の結婚の人気は、将来の皇位継承への左翼の反対を困難にしてしまった。その意味で、職務上、皇室会議議長として妃選定に相当の発言を持った岸総理は、政治的成功を収めたと言える」

 ご成婚から3日後、皇居内仮宮殿「北の間」で「宮中祝宴の儀」が開かれ、モーランド大使も参列した。
 
 この席で岸総理は、「国民と共に心からお喜び申し上げます」と挨拶し、講和条約調印から8年が経ち、日本政府も、象徴天皇制に自信を持ち始めていたようだ。このレポートで興味深いのは、ご成婚に反発する支配層にも言及していることだ。

「天皇制に反対する過激論者、右翼反動主義者、彼女がカトリック系の学校で教育されたことに反発する仏教徒も存在する。また(妃選定で)無視された旧皇族、準族も憤慨している。彼らにとって、天皇の末娘清宮貴子が最近、名門島津家と婚約したのがせめてもの慰めとなった」

 後半部分はご成婚の20日前、1959年3月19日に発表された、第五皇女清宮貴子内親王と島津久永氏の婚約を指す。
 
 元々、皇太子妃選びが始まった時、有力候補は旧皇族の伏見家、北白川家、元伯爵以上の島津家、徳川家、松平家などとされた。
 
 いずれも学習院女子高等科の卒業生から成る「常磐会」会員で、同会から妃が出るのは半ば当然視されていた。
 
 一方、美智子妃が、カトリック系の聖心女子大学を卒業したことは有名だ。将来の皇后の座を「平民」に奪われた彼らの怒りは容易に想像できる。
 
 その後の凄まじい“美智子妃いじめ”を考えると、モーランドの言葉は予言的とすら言えた。

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