天皇皇后両陛下の「サイパンご訪問」秘話 関係者に明かされた“鎮魂への思い”

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 天皇陛下のご退位まで、残すところあとわずか。そのご足跡を振り返るとき、世界各地をご訪問される「慰霊の旅」でのお姿が、強く印象に残る方も多いのではないだろうか。慰霊目的としては初の海外ご訪問となったのは、2005年のサイパンの地だった。その滞在中、陛下が吐露されていたという、知られざる「鎮魂」への深い思いとは――ノンフィクション作家・山口由美氏の手になるレポートを、今回、あらためてご紹介したい(以下、肩書などは2009年掲載時のもの)。

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 初めての慰霊目的の海外ご訪問として、天皇皇后両陛下を迎えたサイパンは、その時、上を下への大騒ぎだったという。訪問地の集中する島の北部は全面通行禁止。小さな南の島には、米本土からシークレットサービスが大挙して送り込まれ、防弾仕様の専用車まで配備された。
 
 いまから65年前の1944年6月15日、米軍がサイパンに上陸。民間人を巻き込んだ激戦の末、旧日本軍は玉砕。米軍による占領宣言が7月9日であった。
 
 天皇皇后両陛下のご訪問も6月。2005年6月27、28日のことである。戦後60年の節目に、ようやく実現した念願の慰霊は、今年4月のご成婚50周年をめぐる報道でも、沖縄訪問などと共にとりわけ意味深い旅と位置づけられていた。緊迫した空気に包まれる中、滞在2日目、天皇は予定外の行動をなさる。バンザイクリフ、スーサイドクリフなどを訪問された後、車が向かったのは、予定になかった朝鮮半島出身者の慰霊碑「太平洋韓国人追念平和塔」だった。
 
 当時、サイパンでは、両陛下ご訪問に際して、韓国人の反対活動が激しかった。抗議活動自体は、事前に封じ込められていたが、しかし、反発の感情は残っていた。それを一掃したのが、この韓国人慰霊碑訪問であったと言われている。
 
 緊張感漂う中での覚悟の慰霊。わずか2日間の滞在における一度限りの夜、宿泊先のホテル日航サイパン(現・パームスリゾートサイパン)で、非公式の夕食会が開かれた。外務省、宮内庁関係者のほか、招待されたのは4人の在留邦人だった。
 
 当日のテーブルは二つ。加藤良三駐米大使を中心としたテーブルには、パシフィック・イーグル・エンタープライズ社長として、取材コーディネイトの仕事をする松本宇位里氏と、現地JTBの営業部長だった吉井信行氏が座った。陛下と同じテーブルでない彼らにも、直接のお声がけがあり、話が弾んだという。
 
 北マリアナ日本人会副会長も務める松本氏には、現地日本人補習校についての質問があった。

「皇后陛下が、『子供たちのことをどうぞよろしくお願いします』と仰った言葉が印象的でしたね。翌日、お見送りの時にも、私の顔を見つけると、同じことを仰るんです」

 吉井氏は、慰霊碑の清掃と慰霊祭の話をした時のことが忘れられないという。

「その話題になった途端、両陛下が身を乗り出されるようにして、話の先を促されるのです。人数の規模や清掃の手順、高校生も参加して、現地政府のサポートもある大切な行事であることをお話ししました。すると『テニアンはどうしているの?』と質問がありました」

 サイパン島の南に隣接するテニアン島も、サイパン玉砕後に米軍の手に落ち、多数の犠牲者を出していた。

「実は、テニアンには、政治団体や宗教団体のものばかりで、政府の慰霊碑がないのです。でも、そう申し上げることも出来ず、現地の日本人がお守りしているとお答えし、ロタでも日本人会が慰霊祭を行っていることを話しました。すると、天皇陛下が『ロタでは戦闘はなかったでしょ?』と仰る。よく勉強なさっていると思いましたね」(吉井氏)

 ロタとは、サイパンとグアムの中間に位置する島である。

「陛下の仰るとおりなんですが、戦病死の方などをお祀りしていると説明しました。私が『日本人会としては年に1回だけなんです。すみません』と申し上げたら、皇后陛下が『いいのよ、ありがとう』と。まるで自分たちの家族の墓を私たちがお守りしていて、それに対してありがとう、と言っているような、そんな雰囲気がありました」(同)

 南洋での戦争について、両陛下は関係者も驚くほど詳しい知識をお持ちだったのだ。

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