天皇皇后両陛下の「サイパンご訪問」秘話 関係者に明かされた“鎮魂への思い”

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「上座」に招かれた女性

 そして、夕食会のもうひとつのテーブル、天皇陛下の隣席に着いたのが、西川君子さんだった。最も「上座」の席に招かれた彼女こそ、両陛下の慰霊にかけた思いの先にある、日本とサイパンとの関係の「象徴」ともいうべき女性だったのである。
 
 埼玉から入植したタピオカ農家の三女に生まれた君子さんは、サイパンの戦いで両親と2人の姉、次兄、弟の家族6人を亡くした。生き残ったのは長兄と2人だけ。しかも、彼女はサイパンに残り、兄と妹は、日本とサイパンで別々の戦後を生きた。
 
 それが、天皇皇后サイパンご訪問時、あるいは、ご成婚50周年のタイミングで、しばしばメディアによって語られた西川君子さんをめぐる物語であった。
 
 かわいそうな戦災孤児、彼女が修道女であることも、おそらく、そうした天涯孤独な運命と結びつけて理解されたのだろう。だから、彼女が夕食会に招かれたのだと。
 
 しかし、実際の彼女には、日本とサイパンの架け橋としての数奇な人生があった。それを象徴するのが、彼女のもうひとつの名前、アントニエッタ・アダである。サイパンでは、彼女を「アダさん」と呼ぶ人が多い。
 
 戦争が始まる前、農園が隣同士であった西川家とアダ家は親しい間柄だった。西川の父、アダの父、彼女は、それぞれの父親をそう呼ぶ。アダの父こと、ファン・マルテイネス・アダは、島きっての素封家であり、サイパンの先住民チャモロの政治的リーダーでもあった。その人物が、隣家の末娘を自分の娘同然に可愛がったのだ。

 やがて戦闘が始まる。彼女は、西川の家族と島の中央にそびえるタポチョ山の方角に逃げた。ジャングルの逃避行、洞窟での潜伏。その途中、相次いで家族を失ったのである。
 
 投降して山を降りたとき、日本人収容所で待っていてくれたのが、ファン・アダだった。彼は毎日、チャモロの収容所から彼女を探しに来ていたのだ。彼女はアダの娘として生きる決心をする。1944年12月、カトリックの洗礼を受けたのは決意の証だったのだろう。そして、アダさんはサイパンに留まった。
 
 戦後、サイパンに残留した日本人は、彼女だけではない。生まれがサイパンであれば、誰でも残ることが出来た。そのなかで、アダさんが特別であったのは、その一族がチャモロの名門であったことだろう。ファン・アダの甥にあたるフランシスコ・アダは、サイパンがアメリカの自治領になった時、初代副知事を務めた人物であり、現在の国際空港にも彼の名前が冠してある。
 
 63年、アダさんは、ベリス・メルセス宣教修道女会に入る。
 
 彼女の甥の息子、ドナルド・フロレス氏によれば、当時、アダさんに求婚する者もいたという。それでも修道女になった理由を、「最初から『決まっていたこと』のような気がしましたよ」と彼女は語った。戦争で生き残った自分には、なすべき使命があると考えたのだ。
 
 実は、77年から88年まで、11年におよぶ年月を、彼女は日本で暮らしている。兄と手紙のやり取りも出来ないほど忘れてしまった日本語を、メルセス会の修道院で学びなおし、英語を教えた。
 
 このとき、日本に残る選択肢もあった。なのに彼女は、終戦時にそうだったように、再びサイパンを選んだのだ。
 
 人生における2度の選択がなければ、2005年6月、夕食会のテーブルに彼女はいなかったことになる。

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