炎上に巻き込まれるのも仕方ない “どう生きるか”僕の指針(古市憲寿)

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『君たちはどう生きるか』。吉野源三郎のベストセラーだが、この問いかけは誰にとっても、そして人生のいつの段階においても意味があるものだと思う。

 なぜなら胸を張って「どう生きるか」を決められる人など決して多くないだろうから。そしてその決定によって、人生の姿はまるで変わってくるだろうから。

 僕自身、「どう生きるか」を考えたことはあまりない。しかし事後的に振り返ってみると、いくつか指針のようなものはあったと思う。

 たとえば「できるだけ努力をしないようにする」。

 子どもの頃、自分が運動能力に恵まれていないことに気が付いた。だから、体育を頑張るのをやめた。そのせいで、僕はドリブルもできなければ、走るフォームもどこかおかしい。

 もしそこで努力をしていれば、人並みくらいには運動ができるようになっていたかも知れない。しかし諦めたのには理由がある。運動をして、身体を鍛えることを、努力とも思っていない人たちがいたからだ。好きで運動をしている人に、いやいや運動をしている人が敵う確率はおそらく低い。

 そう気付いてから、努めて自分がストレスなくできることに時間を費やしてきた。たとえば、子どもの頃から文章を書いたり、図鑑を読んで情報をまとめることが好きだった。それは結局、今の仕事に直結している。

 最近、大事にしているのは「誰かのためだけに生きない」ということ。友だちの誕生日を祝ったり、頼まれごとを聞くのは嫌いではないが、それが「義務」にならないようにしている。

 善意や自発性から始まった行為も、繰り返すうちに義務になることがある。だから、きちんと互いに利益があるかを考える(言葉にすると嫌な話だけど)。友人の誕生日会を開催するときは、さりげなく自分も会いたい人を呼んだりと、「Win-Win」を意識する。

「Win-Win」という言葉を嫌う人もいるが、無垢な善意ほど怖いものはない。きちんと計算をしてお互いにとってのメリットを探ったほうが、人間関係はうまくいくと思う。

 義務感は、大したものを生まない。好きじゃないものは続かない。そう考えるから、過剰に他人の視線を意識することもやめる。

 たとえば、テレビで発言をするとき、「こう言えば褒められるかな」と一瞬よぎることがある。だけど、仮にそのような発言が褒められたところで、それは自分の自由な意見ではない。

 こう整理していくと、自分が一番大切にしているのは「自己決定」なのかなと思う。所得や学歴よりも、「自己決定」が幸福度に影響しているという研究もある。

 もちろん完全な「自己決定」などないのかも知れない。人は常に影響を受ける。どんな決定にも、他人や社会の影響は皆無ではない。

 だけど僕の場合、「自分で決めた」ことに関しては、失敗しても「仕方ない」と思える。いらぬ炎上騒ぎに巻き込まれ続けているのも、自己決定の結果だから仕方ない。下手にマネージャーがいなくてよかった。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年2月7日号掲載

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