美を見る目が甘かった…フリーア美術館が持つ“琳派の名品”〈誰が「国宝」を流出させたか〉

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誰が「国宝」を流出させたか――中野明(2/3)

『流出した日本美術の至宝』(筑摩選書)の著書があるノンフィクション作家の中野明氏が、海外の美術館に所蔵される日本美術の名品を紹介する。前回紹介したのは、米ボストン美術館の“海を渡った二大絵巻”。そのうちの一つ《吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)》の流出は、準国宝級の美術品の輸出を制限する法律成立の事実上の契機となった。

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 そのボストン美術館と双璧をなす日本美術コレクションで知られるのが、ワシントンDCにあるフリーア美術館である。同館は、チャールズ・ラング・フリーア(1854〜1919)が蒐集した日本の美術品を基礎に、大正12年(1923)にオープンした。

 フリーアはデトロイトの実業家で、鉄道車両の製造で巨大な富をなした。もともと日本美術の影響を色濃く受けたアメリカの画家ホイッスラー(1834〜1903)の作品を熱心に蒐集し、そのホイッスラーとの親交を通じて彼は日本美術に興味をもつようになる。

 45歳で実業界を引退したフリーアは、以後残りの時間を美術品の蒐集に捧げる。日本にも4度来ており、明治39年(1906)には蒐集した日本関連の美術品をアメリカ政府に寄贈し、やがてスミソニアン博物館群の一つとして美術館が開館する。もっともフリーアは、大正8年にこの世を去るまで、美術品を手元に置き、蒐集も継続した。死後約1万点の蒐集品がフリーア美術館に収まっている。

 そのフリーアが蒐集したコレクションから、最上クラスの作品として《松島図屏風》と《宝楼閣曼荼羅図(ほうろうかくまんだらず)》の2点を挙げたいと思う。

 俵屋宗達作《松島図屏風》は、逆巻く波にもまれる島と画面上を緩やかに伸びる松を描いた六曲一双の屏風だ。屏風の大部分が大きくうねる波濤に埋め尽くされ、いまにも波が砕け散る音が聞こえてくる。

 フリーアが《松島図屏風》を入手したのは明治39年で、美術商・小林文七(ぶんしち)(1862〜1923)を通じてだった。それまでにもフリーアは、《扇面散図屏風》や《雲龍図屏風》など宗達または宗達派の作品の他、尾形光琳や乾山と、いわゆる琳派(りんぱ)の作品を多数蒐集していた。

 これは驚くべきことで、実は明治30年代、日本における琳派への関心は非常に低く、俵屋宗達の名は忘れ去られていたからだ。現在の琳派人気から考えると信じられないことだが、フェノロサが著作で事実を記している。つまりフリーアが琳派の名品を海外に持ち出せたのも、当時の日本人の美を見る目が甘かったことが幸いしたわけだ。

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