小倉さんを“年寄り扱い”してますが、“おじいちゃん”にあらず(古市憲寿)

古市憲寿 誰の味方でもありません 国内 社会 週刊新潮 2018年8月9日号掲載

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 何年か前に出版した『だから日本はズレている』(新潮新書)という本で、「おじさん」について書いたことがある。そこでは「おじさん」を、ただの「中年男性」の意味ではなく、自己批判のない既得権益層という趣旨で使用した。

 若い女性でも「おじさん」のように新しいものを拒み、ひたすら自己保身に走る人もいれば、見た目は太った中年でも、次々に革新的な技術を生み出す起業家もいるからだ。

 同じように「おじいちゃん」かどうかも、年齢では判断できないと思う。2回ほど作家の五木寛之さんと対談したことがある。五木さんは1932年生まれ。年齢からいえば「おじいちゃん」と形容してもおかしくないが、全く「おじいちゃん」ぽさがなかった。

 まず、他人の話を本当によく聞いてくれる。持論を滔々と述べるのではなく、適切な質問をして、会話のキャッチボールを続ける。

 特に、『嫌老社会を超えて』(中央公論新社)という本の対談時は、あらかじめ僕の本を何冊も読んできてくれていた。五木さんくらいの見識があれば、適当にこれまでの経験談を話しているだけでも記事になりそうなのに、80代になってもインプットを怠らないのだと感動した覚えがある。

 仮に「おじいちゃん」の定義を、他人や社会に興味を持たず、自分語りや昔話に終始する人とした場合、それに五木さんは当てはまらない。

 その意味でいうと、「とくダネ!」の小倉智昭さんも「おじいちゃん」ではないと思う。番組では小倉さんを年寄り扱いもするが、もし本当に小倉さんがよぼよぼの「おじいちゃん」だったら、そんなことは冗談でも言えない(一応僕でも空気を読むのだ)。

 小倉さんは、よく他人の話を聞く。そして貪欲に新しいものを吸収しようとしている。その姿勢は「おじいちゃん」からはほど遠い。

 一方、若くても「おじいちゃん」はたくさんいる。別に誰が「おじいちゃん」になろうと勝手なのだが、人はそうなった瞬間に成長が止まると思う。

 作家が一番成長するのは、「自分には才能がない」と大騒ぎする時だと聞いたことがある。ほどほどの解像度でしか作品を鑑賞できない新人は、名作も凡作も同じように見える。だから自分にも才能があると勘違いできる。

 しかし、自身が成長することによって、これまで見えていなかった細かな差異に気付く。そこで初めて「自分には才能が足りなかった」と大騒ぎするのだ。その気付きは、作家を成長に導く。

 作家に限らず、何の仕事でも同じだと思う。「まあ、こんな感じでいいかな」と思った瞬間、誰もが「おじいちゃん」になってしまう。

 もっとも「おじいちゃん」は楽でもあるのだろう。世の中についていくのをあきらめて、見知ったメンバーで、ずっと同じような話をしていればいいのだから。それは天国のような情景でもある。個人的には「おじいちゃん」になるのは、死んでからでいいかなと思う。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。