潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 隠された“計画”と当事者たちのその後

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今も続く沈黙

 検事調書に悔恨の念を記録されている荒井も例外ではなかった。山下の操艦について、法廷で検察官から、

「自ら操艦するんだという意味で“おれがとる”と言ったことと、N1運転のことは、何か関係があると思いますか」

 と問われ、こう答えている。

「分かりません」

 司法記者が続ける。

「山下艦長も最後までN1の試験計画と操艦判断のかかわりを否定し続けた。供述調書は伝聞証拠に当たり、原則として証拠能力を持たないから、これでは検察はお手上げ。自衛隊の一致団結した組織防衛の前に敗れたのです。結局、N1計画と事故の関連性は限りなくクロに近いものの、裁判は真相が解明されないまま、うやむやで終わった」

 山下は裁判終了後、自衛隊を離れた。防衛庁幹部が言う。

「自衛隊法に基づき、離職しました。禁固以上の刑が確定した時に自動的に自衛隊員の資格を失う、というもので、退職金は支払われていません」

 職を失った山下は2年ほど浪人生活を送り、平成6年、知人の紹介でコンピュータのソフトウエア会社に再就職した。関係者が52歳になった山下の仕事ぶりを語る。

「公共システム開発部の部長を経て、いまは首都圏本部の営業部長をしています。部下は5名ほど。彼の仕事は、営業がとってきた会社に、システムの提案をすることです。生真面目で、よく仕事をされる優秀な方ですよ」

 一度、「もう少し楽にしてもいいんじゃないか」と言うと、山下はこう答えたという。「私は祈りの中で生きていますから」と。

 今も犠牲者の家族を訪ね、祈りを捧げる日々を送っている。閑静な住宅地にある自宅を訪ねると、インターホン越しに夫人の声がした。本人に会いたい旨を告げると、しばらく間があった後、夫人のか細い声が漏れた。

「なにも話す気になれないから、と申しております」

 第一富士丸の舵を握っていた近藤万治は、事故後、流転の生活を余儀なくされた。43歳になる近藤は、一言一言を噛み締めるように語った。

「事件のあとは3年間、建材店でアルバイトをしておりました。その間、裁判で時間の制約が増えたので建材店を辞め、支援団体の援助で1年近く裁判に専念しました」

 その後1年間、倉庫で肉体労働に従事し、平成5年の暮れに海運会社へ就職している。事件から5年後、やっと手に入れた定職だった。営業部員として中国の青島で3年半、駐在員を務めるなど、充実したサラリーマン生活だった。しかし昨年1月、海運会社は倒産してしまう。

「しばらく失業状態だったのですが、会社が潰れたままではもったいない、と出資してくれる会社があり、別の海運会社が設立されました。今はそこで働いています。船に乗ることはありません。貨物を集める仕事なので、船の運行に携わることもありません」

 1年の半分は中国で過ごし、国内でも四国、九州への出張に追われる毎日だという。

「いまも独身です。トシにもなりましたし、結婚については積極的に、という気持ちはもう無いです。事故の前は嫁さん探しをしょうと思っていましたが、あの事故で結婚する気はなくなりました」

 裁判を振り返ってこう語る。

「自衛隊の人の法廷証言が、検事調書とことごとく違っていたのはね……正直に言ってもらえると信じていたのに、統一した回答になっていたのは、やはり情け無かったです」

 民間人30人の命が失われた大惨事から13年。潜水艦なだしおの乗組員は、今も沈黙を守ったままである。

(文中敬称略。了)

2001年5月3・10日ゴールデンウイーク特大号掲載

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