「悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト」の驚くべき生涯
そのミュージシャンの到着を待ち焦がれていた人たちは、コンサートホールに殺到した。
街には「あやかりグッズ」が溢れ、レストランやカフェには便乗メニューも登場。そのパフォーマンスは人々を熱狂させ、コンサートの様子を伝える新聞では折り重なる観客の姿のイラストが描かれる。コンサートを終え、莫大な収入を手にしたミュージシャンは、次なる街へと去って行く……。
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安室奈美恵の引退コンサートか、EXILEのドームツアーのことかと思われるかも知れないが、これは今から200年前の欧州の話である。
ミュージシャンの名前はニコロ・パガニーニ(1782~1840)。史上最高にして空前絶後のコンサート・ヴァイオリニストである。
大衆が熱狂した「超絶技巧」
パガニーニの生涯を描いた本邦初の伝記『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』(浦久俊彦著)によると、生前の彼の人気はものすごいものがあった。
当時、ヨーロッパを支配していたナポレオンの妹2人が、パガニーニを奪い合った。姉エリザの宮廷で雇われていたパガニーニを、妹のポーリーヌが自分の嫁ぎ先であるボルゲーゼ家の所領に連れ込んだのだ。
ウィーンでの初公演の際には、コンサートチケットの代金が5グルデンであったため、5グルデン紙幣が「パガニーナー」と呼ばれるほどに人気が沸騰した。パガニーニの名を冠したハンカチやネクタイ、たばこケースなどが売られるようになり、カフェにはヴァイオリン型のケーキも登場。イギリス滞在時には邦貨換算で80億円相当(!)を1年間のコンサートツアーで稼ぎ出した、とも言われる。
パガニーニはなぜ、ここまでの度外れた人気を獲得したのだろうか。
理由の1つは、彼の圧倒的な技量である。
クラシックファンには周知のことだが、パガニーニと言えば「超絶技巧」がトレードマーク。彼が作曲したヴァイオリン協奏曲を聴けば、弾きこなすのに相当なテクニックが必要であることは、クラシックの門外漢であってもわかるだろう。この超絶技巧に大衆は熱狂したのだ。
それだけではない。パガニーニは時に、曲芸じみた演奏をすることをためらわなかった。ナポレオンの妹エリザが大公妃だったルッカ公国で宮廷楽士をつとめていた時、パガニーニは「2本の弦によるデュエット」という曲をつくり、演奏している。
本来ヴァイオリンには4本の弦があるが、ある夜の演奏会に現れたパガニーニのヴァイオリンには2本の弦しかなかった。残っていたのは、最も太いG線と最も細いE線。G戦を男性、E戦を女性に見立てて、まずはつかの間の口げんか、そして仲直り、最後は愛のささやきとふたりの華麗な踊りで締めくくるというドラマティックな曲を披露したのだ。一説には、パガニーニが恋人にメッセージを送るために、彼に執着していたエリザ妃の目をかいくぐるための曲だったとも言われる。
さらに、大公妃に「弦2本でこれだけ見事な演奏ができるのなら、1本の弦でも演奏は可能か」と聞かれたパガニーニは、本当に弦1本の曲を作って演奏してみせたのだ。これが後に「ナポレオン・ソナタ」と呼ばれる、独奏ヴァイオリン(G線のみ)とオーケストラのための作品である。
19世紀の「悪魔ブーム」に便乗
パガニーニの人気を作ったもう一つの理由、それは「マーケティング」である。
舞台に上がる時、パガニーニはいつも黒ずくめの服装をしていた。生来病気がちで身体が細く、異常に肩幅が広い。身体はものすごく柔軟で、手も大きかった。髪は長く、肩に掛かっている。どこかしら禍々しいものを感じさせる風貌で繰り出される人間業とは思えない超絶的な音色。確かに「悪魔」と形容されるのもむべなるかな、である。
この「悪魔」イメージを、パガニーニは積極的に利用した。
パガニーニが活躍した19世紀の前半、欧州は「悪魔ブーム」に沸いていた。パリで爆発的な人気を博したオペラ「悪魔のロベール」の初演が1831年11月。その半年前の3月には、ヴィクトル・ユゴーの悪魔的な作品『ノートルダム・ド・パリ』が刊行されている。この時期は、1828年から足掛け6年の欧州大陸縦断ツアーに乗り出したパガニーニが、鮮烈なパリデビューを果たした時にぴったり重なっている。
「西洋でいちばん名の売れている悪魔」メフィストフェレスが作中に登場する『ファウスト』をゲーテが書き上げたのもこの頃だ。この他にも悪魔をテーマに扱った怪奇小説、幻想小説の類いには事欠かない。
パガニーニがヨーロッパの舞台に華々しく登場したのは、このように悪魔が大流行していた時期と見事に重なっている。紙の上に描かれた悪魔ではなく、ホンモノの「生ける悪魔」を求めていた民衆にとって、パガニーニの登場はうってつけだったのだ。
そのうえパガニーニは、「守銭奴・女好き・涜神者」。西欧社会を支配していたキリスト教的な価値観とは真逆のイメージの男だった。その生涯は数々の恋愛スキャンダルに彩られているし、晩年には「カジノ・パガニーニ」なるものまで構想されたほど俗っぽいエピソードに事欠かない。
教会との関係も悪く、臨終に際して神に許しを請う「終油の秘跡」を拒否したとされるパガニーニは、カトリック教会から埋葬を拒否され、遺体となってからも欧州をさまよい歩く羽目になった。放置されたパガニーニの遺体は夜な夜なヴァイオリンを奏でている、などといった一種の幽霊伝説も生まれた。
まさに「悪魔」の名に相応しいアンチヒーローだったのだ。
パフォーマーの時代の先駆け
西洋音楽でかつて「巨匠」とされたのは、クリエーターだけである。バッハもモーツァルトもベートーベンもショパンも、優れたパフォーマーでもあったが、基本的には「クリエーションしてこそのパフォーマー」だった。その巨匠たちの時代に、圧倒的なパフォーマーとして名を刻んだ異端児がパガニーニだった。
『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』の中で、著者の浦久俊彦氏はこう記している。
「芸術とは創造であると考えられていたような時代にあって、その悪魔的なパフォーマンスが、社会現象ともいえる圧倒的な熱狂の渦に大衆までをも巻き込んだのは、彼がはじめてだった。というよりも、ひとりの演奏家が社会現象になるという、ビートルズやロックスターにも通じる大衆文化の時代が、彼の登場とともに幕を開けたといえるのだ」
ロックもポップスもなかった時代、クラシックの世界で「現代へとつながる道」を切り開いた男、パガニーニ。その存在は、単なる西洋音楽史の登場人物として止めておくには巨大すぎるのだ。