後悔、葛藤、苦悩… 死刑執行されたオウム「井上嘉浩」が綴った獄中書簡300通

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後悔と葛藤と

――しかし、オウム犯罪の実行部隊だった井上は、あらゆる事件に名前が取り沙汰された。警視庁元巡査長・小杉敏行が「井上に命令されて私がやった」と“告白”した時もマスコミは大報道を展開した。

《今年はいろいろなことがありました。私は拘束されている身でありながら、よくこれだけあることないことが話題になると、半分、感心しているほどです。ただ、これだけ激しく叩かれたり、ないことを云われたりすると、すればするほど、どんどん自分のうみというか、汚れというか、観念というか、そがれていって、今年の一年はこれまでの人生の年月の中で一番成熟した年であったように自分では感じます。
 胸をいため、苦しみ、もだえながら厳しい現実の日々、一切の妥協のない真剣勝負の法廷に、容赦なく強制的に追いやられることで、より一層、自分を見つめ、自分の尻を叩き、とにかく、「松本氏に負けられない、だから真実を話すのだ、だからどんなに叩かれても平気なんだ」と、毎日、自分に言い聞かせてやってきました。この苦悩こそが私の原動力になっています。(平成8年12月27日)》

《私の関係のない私が報道されている。
私も私と異なる私も、共に私でなく、夢のごとし。
どんなに傷つけられようと、どんなに誹謗中傷されようと、それも又、実態はなく、本来、不生。
其れを悟れば、ただ、笑いがはじけるだけ。
この世に無数の笑いが不生からはじけ飛ぶ。
そこには、こだわりも、悲しみも、喜びも存在しない。
ただ、この一瞬、不生の輝きが、今も笑っている(平成9年2月19日)》

《サリン事件から2年がたちました。日々、やはり、言葉にならない後悔と悲しみが浮かんできます。

ただ一人、拘置所という檻の中で、もくもくとダルマをみがく
ただ一人、夜も昼も誰に見せるということもなく、こつこつと自分に向き合いダルマをみがく
どんなさびしさや悲しみが沸き起ころうと、それを友として自分に向き合いダルマをみがく
あらゆる世俗を放棄し、ただダルマをみがく
自分のあらゆる限界を突破するためダルマをみがく
そしてラマたちのあらゆる支えとともに自分を完全に突破した時、そこから本当の救いが始まる
どんなことがあっても、どんな時でも
必ずダルマと共になる日まで修行を続けること
それが私の供養であり、一生の願いです(平成9年3月24日)》

《悪口を叩かれようが、傷つけられようが、
共に夢以外、なにものでもない。
褒められようが、うれしいことであろうが、
共に夢以外、なにものでもない。
空なるものを知らず、空なるものの現れに取りつかれ、
一体、どれだけの悲しみと苦しみと狂気を演じてきたことであろうか?
どれだけすばらしいものであろうと、
一切、空そのものなり。
人生における勝利者は、地位や名誉の幻想を獲得することではない。
本当の勝利とは、勝利であることのニセモノを知り、
自分を作り上げている精妙な空なるものの、慈悲の働きを知ることなり(平成9年5月1日)》

《巧妙な罪人、意識の輝きを捉え、自分のものとしてしまう心の中の理解、そこから生まれるものに真実はなし。
救いのない罪人、いつわりの自我の虚像にはまり込み、
あれやこれやと区別して、救いのない狂乱に埋もれる。
罪人を生む罪人、狂気の心を持って、自我の執着を作り出す
心の働き、あれやこれやの働きがおのずと消えれば
ただ、真実がこの場に満ちあふれ出る(平成9年11月18日)》

つぐなえない原罪

――法廷で必死に自らの罪と向きあってきた井上は、地下鉄サリン事件の実行者で、同じく真っ向から麻原と対決してきた林郁夫(53)に無期懲役が求刑されると、「これからも今まで以上に大地にしっかり自分を据え、歩んでいくのみです」と、こんな詩を書いている。

《 ――自然の意味――
自然は絶えず変化していく
それが自然の姿だから
喜びも悲しみも様々な姿が溢れては消えて行く
そう、何もかも消えて行く、
それが自然そのもの
その闇の存在は、どれもみんな意味をもっている
でも、その意味は知られることなく、過ぎていくのがいつの世も悲しい限り
ただその意味を流れ行く現実に立ち上げていく
大きなやさしさが、生きている原罪をつぐなう道
それは誰かにささやくものではなく、
おのずから、開かれるところに輝くもの(平成10年3月13日)》

《 ――原罪のやさしさ――
日は巡る、苦と悲しみ、共に持ちながら、
日は過ぎ行く、苦しみも悲しみも共に去りながら、
人は生まれ死んで行く、
その輝きはいつどこでもすばらしき存在の慈悲、
生きることの原罪は限りなく深く、
私はその大いなる苦悩にもみくちゃにされている、
でもそれが本当のやさしさなんです。
私はそれを味わって、心を成熟へと誘います。
それが罪人たる存在への償いだから(平成10年3月20日)》

《他人の苦しみを感じられない小さな心は、いつも自分のことだけ考え、
さびしいもの、どんな人でも良いところを持ち、輝いていることの
真実に謙虚にあること、それが私の願いです
自分の苦しみはちっぽけな自分のとらわれにあると知り、
どんな苦しみも矛盾も小さな自分を拭い去ること、それが私の願いです
桜の木々は冬の大地に暖められ、人々の心を安らぎに満たしてそっと散っていく。そのやさしさに涙があふれます(平成10年4月10日)》

《 ――罪――
罪は罪、でもその罪も存在しています。
非は非、その非は強くあります。
でも共にあることで生命は原罪を背負いながら生きている。
その本当の姿を心を開き体得すること、それが罪を償う道、
それを自覚して生きること、それが私の心からのつぐないです。(平成10年5月1日)》

苦しめた人々の苦しみと比べるなら

――獄中書簡には、罪と向き合い、それに慄(おのの)き、苦悩する思いが家族に向かって繰り返し吐露されている。

《被害者の方々に一体、何ができるか。毎日、毎日考え抜いています。そのひとつの私の理解はいきつくところ、私のような誤ちをこれからの若い人が犯さないように、赤裸々に語ることであり、それは裁判では、はっきりいって不可能に近いです。あまりにも制約があることを、この一年で理解しました。
 自分のための努力は、なまけてしまう。でも誰かのためにと思う時、人は自分を超えた力が自分にわいてくる。この時、人は充実すると思う。

 鳥達の声も、人間の声も、空なる響きには異ならない。あらゆる声の慈悲を知りつつ内においては、不動の空に宿ること、それこそ空と空の中間の悟りなり。(平成11年5月14日)》

《罪は罪、でも法も罪なり、人は罪、でも心も罪なり
苦悩も悲しみも、何もかもただ愚かなる無口な者たちに
人をあやつるものの罪のない矛盾
法は矛盾をいつも都合よく隠していく
法の人たるゆえん、しかし、真法はいつもそこにある(平成11年6月4日)》

――しかし、いくら反省しようと被害者たちの心情は井上に対して厳しいものだった。法廷で被害者遺族に糾弾された彼は苦悩の思いを綴っている。

《これだけやったから十分というものではありません。本当に真実を少しでもかいまみたなら、いかに自分は貧しく、愚かで迷路に入り、無智であるか、どんどんみえてきます。これだけとか、あれだからというのは、成熟を止まらせるものと今思っています。心の探究は、とてつもなく、深く遠いものですが本当に意味あるものです。

 ――まなざし――
どんなに苦しくとも、私の苦しみなど、とるにたらないもの
かつての両親であった輪廻にみちる真情と比べるなら
どんなに学んでも私の学びなど、ままごとのようなもの
かつてのダルマの求道者の真剣さと比べるなら
どんなにつらくとも私のつらさなど夢のようなもの
今、ここにあるけど、今ここのどこにもない
どんなにかなしくとも私のむなしさなど、とるにたらないもの
かつて苦しめた人々の苦しみと比べるなら(平成11年11月5日)》

《苦しみは、ある面だけでしかなく、受けとる心によって全く別のものへと映ります。
 ほめられ、よろこびをあたえられ、自分の存在に自己愛をもつより自分がめちゃくちゃになる、かなしみや苦しみ、非難、誤解の方が、より本当の自分を知る糧となるものです。
 人の真実は、ぎりぎり自然にあらわれます。(平成11年12月21日)》

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