麻雀万歳! “ろくでなし”を生き抜いた「小島武夫さん」(墓碑銘)

エンタメ

  • ブックマーク

Advertisement

 その法名は「国士無双」にちなんだ「無双院釋天武居士」であるという。勝負師・小島武夫さんの生涯を、週刊新潮のコラム「墓碑銘」で振り返る。

 ***

 日本の麻雀人口は現在でこそ500万ほどだが、最盛期の1970~80年代には2千万を超える人が興じていた。ゲーム機やカラオケなどない時代、麻雀はゴルフと並び最もポピュラーな大人の娯楽であった。

 麻雀を日本人の遊びの文化に根付かせた一人といっていいだろう。「ミスター麻雀」とも称されたプロ麻雀士の小島武夫さんが、5月28日、心不全のため亡くなった。享年82。

「ポンやチーを連発する安い手で勝ちに拘(こだわ)るのではなく、いかに見ている人を喜ばせられるか、豪快な“魅せる麻雀”に徹した方でした。打ち筋同様、常識に囚われない破天荒な人柄。それでいて明るく愛嬌があり、皆に愛される存在でした」

 とは、40年の親交を持つプロ麻雀士・馬場裕一(ひろかず)氏。

 1936年、博多生まれ。

 中学生の時、近所の年上の友達から手ほどきを受けたのが牌を持つ始まりに。中学を卒業するといったんはパン屋に就職するが、雀荘通いを始め、職を捨てて住み込みメンバーとして働くようになる。12時間も打ちっ放しの生活で、めきめきと腕を上げていった。

 27歳で上京。67年に日本麻雀連盟主催「東京牌王位戦」で優勝し、あるテレビ局関係者の目に留まった。大橋巨泉が司会を務める人気の深夜番組「11PM」のスタッフである。小島さんは68年から7年半、同番組の麻雀コーナーを担当することになった。

 まだ“日陰”のイメージのあった麻雀の面白さを、スマートに分りやすく説いた。それどころか、業界内の秘密であるイカサマの手口まで洗いざらい明かし、その名は一気に知れ渡ることに。

「博多時代に覚えた技です。地方の雀荘には、荒らすのを目的にしたイカサマ師も訪れます。そうした客相手に、防御のため自らも身につけていったそうです」(同)

 さらに小島さんの活動範囲は広がる。テレビを見た阿佐田哲也こと、作家の色川武大(たけひろ)氏(89年没)の知遇を得ると、プロ雀士の古川凱章(がいしょう)氏(2016年没)も加わり、70年、エンターテイメント集団「麻雀新撰組」を結成。テレビや週刊誌に登場して人気を博した。また、同じ頃に刊行された阿佐田の小説『麻雀放浪記』シリーズが大ヒット。戦前、一部の文化人に流行ったブームを優に超え、「第2次麻雀ブーム」と呼ばれた。

 2度の最高位、無双位、最強位等、獲得タイトルは数知れず。75歳で出場した11年の「麻雀グランプリMAX」では優勝を果し、健在を証明した。

 10年に出版した自伝のタイトルは『ろくでなし』。その名の通り、私生活は無頼派そのものであった。

 4度の結婚に4度の離婚。「抱いた女は200人」「狙った女を外したことはない」と豪語する艶福家。銀座でもモテた。

 酒豪としても鳴らし、若い時分はウィスキーのボトルを毎日2本は空けていた。55歳で糖尿病を患ってからも、ハイボールの晩酌は欠かさない。「酒はとことん呑まれ、溺れた方がいい」をモットーとした。

 そして、借金王の異名をとるカネ離れの良さ……。競艇などの賭け事も大好きで強いのだが、引き際を知らず最後はいつもオケラに。雀荘を作っては倒産させ、一時、負債は億単位にも。

「正に“飲む打つ買う”の揃い踏み。でも、決して人を不快にさせるようなことはないんですよね。おカネがなくても、誰かが都合してくれる。そんな器量がありました。女性に対しても、確かに気は多いのですが、一度本気で好きになった相手には徹底して一途になる。だからモテるんです」(晩年まで親しかった日本プロ麻雀連盟の森山茂和会長)

 最後の離婚以来20年以上、一人暮らしであった。3月に糖尿病が悪化し入院。入院後も麻雀を打ちたがっていたという。2人の子、数人の孫が駆けつける中、静かに息を引き取った。

週刊新潮 2018年6月14日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。