“段ボール一杯のピン札”から“錦鯉”まで… 「田中角栄」カネの流儀

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生きたお金の使い方

 ここでざっと角栄の人生を振り返っておくと、1918年に新潟県で生まれ、高等小学校卒ながら代議士となり、国権の頂点に上り詰めたのは、54歳の時。しかし、栄華は長くは続かず、金脈批判で総理を辞し、その約2年後にはロッキード事件で逮捕されてしまう。それでもしばらくの間、闇将軍として隠然たる力を誇示していた角栄が脳梗塞で倒れたのは、竹下登らが創政会を結成した85年。これにより表舞台から完全に姿を消し、失意のうちに他界したのは93年12月16日のことだった。

「金権政治家と揶揄されることも多いですが、角栄さんのお金の使い方は実はとてもきれいで、自分のためではなく、周囲にどんどん渡してしまう。“金は貸したら返ってこないと思え”というのが口癖だった彼はとにかく、“生きたお金の使い方”に長けていた」

 そう語るのは、長らく角栄の番記者を務めた「新潟日報社」の小田敏三社長。

「ある時、角栄さんが何人かの記者を連れて伊豆辺りの旅館に泊まったことがありました。到着すると、彼はまず秘書の早坂(茂三)さんに旅館で働いている女中の人数を尋ねます。早坂さんが答えると、人数分のご祝儀を用意して配ります」

 人心掌握術に長け、“人間学博士”とも呼ばれた角栄の真骨頂が発揮されるのは、ここからだ。

「帰り際には挨拶に来た女将さんに“皆でお菓子でも食べて”と10万円ほど渡す。すると女将さんは“いえ、昨晩のうちに秘書の方から頂いています”と答える。そこで、角栄さんは早坂さんの方を見てニヤッと笑って“お前、気が利くな”と言い、“これは僕からだ”としてそのお金を女将さんに再び差し出すのです。一連の言動で、角栄さんは、早坂さんの顔を立て、女将さんの心も掴んでしまったわけです」(同)

 角栄流の気配りはそれで終わりではなく、

「調理場の方にも向かい、料理人たちに対して“おいしかった。本当にありがとう”と声をかける。料理人たちはまさかそんなことを言ってもらえると思っていないから驚き、出発する時には、皆が見送りのために玄関に出てきて大盛り上がりでした」(同)

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