夏目漱石の恋心を偲ぶ湯と、川端康成が執筆に没頭した“雪国の宿” 文豪が愛した温泉宿

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“朝食を昼にとる人”

 まるで我が家のように過ごしたと、女将が続ける。

「夜更けから明け方まで原稿を書いておられまして、書き上がると、うちの番頭が越後湯沢駅に向かい、原稿を汽車に乗せました。到着する上野駅には編集者が待ち構えていて、原稿はそのまま印刷所へ持ち込まれたと聞いています」

 起きるのは決まって昼過ぎ。仲居たちの間で、川端は“朝食を昼にとる人”と認識されていたらしい。

「夕方になると、先生は地元の人たちがお風呂に入って一杯引っ掛けるお座敷へ、よく顔を出しておられました。地元の噂話でもちきりになる席で、聞き耳をたてていたようです」(同)

 確かに『雪国』のページをめくれば、旧暦の正月14日の夜から15日にかけて行われる、豊作を祈願する「鳥追い」や、地域の祭りをはじめ、結末で描かれる滞在中に起きた火事など、地元ならではの話がふんだんに取り入れられている。

 独特なその眼差しで、見聞きした話を基に筆を揮った「かすみの間」は、旅館が建て替えられた時に丸ごと移築され、名作が生まれた舞台として保存されている。これからの季節は雪渓が残る越後連山を一望でき、その眺めは昔から何一つ変わらない。川端が好んだあけびの新芽も、5月に芽吹く頃にしか食せない逸品だ。宿では湯掻いておひたしにしたものを、最後には卵をのせて供されるが、爽やかなほろ苦さが舌に残る。

 自慢の「卵の湯」は、硫黄とも甘い香りとも言い難い匂いがふわっとして、時折、湯の中で白い小花、湯の華が咲く。その効能を書き連ねるより、ここは川端が妻へ宛てた書簡をもってその代わりとしたい。

〈この温泉は神経痛によいらしい。暖かくなつたせゐもあらうが、徹夜の後の無理で痛んでも直ぐよくなる(中略)湯はぬるいこと 前便通りだが、石鹸のあぶく立つこと、東京以上で、肌にいいと思はれる〉(昭和9年6月16日付)

山崎まゆみ(やまざきまゆみ) 温泉エッセイスト。1970年新潟県生まれ。国交省任命「VISIT JAPAN大使」。跡見学園女子大で「温泉と保養」をテーマに講義中。著書に『だから混浴はやめられない』『続バリアフリー温泉で家族旅行』など多数。

週刊新潮 2018年5月3・10日号掲載

特別読物「天才の一行はここで生まれた! 『文豪』が愛した温泉宿――山崎まゆみ(温泉エッセイスト)」より

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