夏目漱石の恋心を偲ぶ湯と、川端康成が執筆に没頭した“雪国の宿” 文豪が愛した温泉宿

ライフ 旅・街歩き 週刊新潮 2018年5月3・10日号掲載

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「文豪」が愛した温泉宿――山崎まゆみ(2)

 温泉エッセイスト・山崎まゆみさんが紹介する、文豪たちが愛した温泉宿の数々。群馬県片品村の「丸沼温泉 環湖荘(かんこそう)」にまつわる開高健のエピソードに続く今回は、夏目漱石と川端康成の“宿”を取り上げる。作家には温泉好きが多く、名湯秘湯には必ずといっていいほど文豪の足跡がある、と山崎さんはいう。

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 むろん、作品にもそれは現れていて、無類の温泉好きの夏目漱石は、愛媛は道後温泉を舞台に『坊っちゃん』を執筆しているし、あちこちの宿を訪ねては温泉逗留記を書いたことでも知られる。晩年、病に侵されながら足を運んだ修善寺温泉の菊屋旅館では、吐血し危篤状態になっている。

 そんな漱石の初期作である『草枕』は、小天(おあま)温泉(熊本県玉名市)が舞台だ。

 作品では「那古井の温泉場」と表記されるこの地へ、漱石は高校教師として熊本へ赴任していた時代、実際に足を運んだ。地元の名士で自由民権運動家の前田案山子(かがし)が構える別邸に逗留したが、そこで前田家の次女・卓(つな)に心を寄せたと言われる。

 実際、漱石は作品の主人公が、素封家の娘・那美を見初め、お屋敷の風呂場で遭遇する光景を記した。

〈やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照すものは、只一つの小さき釣り洋燈(ランプ)のみである(中略)一段を下(お)り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影(ほかげ)を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ〉

 絵解きをすれば、漱石が入った別邸の風呂場も、男湯と女湯を仕切っていたのは簡素な板だけ。おまけに湯口は男湯側のみに備え付けられていて、必然的に女湯はぬるくなる。仕方なく男湯へ足を運ぶ那美。戸惑う主人公の姿に、漱石は自らを投影してみせたのだ。

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