「具志堅用高」の栄光に傷をつけた「毒入りオレンジ事件」

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〈勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む〉――。必勝の兵は、戦って勝とうとするのではなく、予(あらかじ)め勝てるようにしてから戦う。この「孫子の兵法」の実践が偉大な記録を作ったのか。拳と拳がぶつかる“筋書きナシ”のドラマが人気を博し、ボクシングは戦後日本で黄金時代を迎えた。が、熱狂に水を差す事件が起きる。真剣勝負に隠された疑惑の“シナリオ”が発覚したのだ。しかも渦中の人となったのは、あの無敵の世界チャンプ、具志堅用高(62)だった。

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「当時の私は16歳の高校生。通学電車の中吊り広告で、『金平』の2文字が大きく見出しになっていたのを覚えています。教室に入ると、机の上に疑惑を報じた週刊誌が置かれていましてね。親父には一応、“やったの?”と聞きましたよ。返事は“やってないよ”。それ以上は聞きようがない。家庭内のタブーというわけではないんですが、親父が亡くなるまで、その話をしたことはなかったですね」

 そう語るのは金平桂一郎氏(52)、協栄ボクシングジムの現会長だ。親父というのは、ジムの創設者で前会長の金平正紀。一連の疑惑は、通称“毒入りオレンジ事件”として記憶される。

 ことの発端は昭和56年(1981)6月に遡る。後楽園ホールの試合で、協栄ジム所属の渡嘉敷勝男は前評判を覆し韓国の金龍鉉に判定勝ち。世界戦への挑戦権を得た渡嘉敷は、12月のWBA世界ライトフライ級タイトルマッチでも勝利して、ジムの先輩・具志堅用高が失ったチャンピオンベルトを奪還した。ところが、翌年3月、渡嘉敷が世界戦への扉を開いた金龍鉉戦で、薬物を使用していたとの疑惑が報じられたのである。

 あらましはこうだ。56年6月、金平正紀らは小型注射器でオレンジに薬物を混入。試合前に金選手のマネージャーに渡したところ、試しに食べたトレーナーが吐き気と下痢に襲われた。幸い金選手は口にしなかったが、韓国側は猛抗議した。後述するが、ほどなくこの疑惑は具志堅の試合にまで遡及することになるのだ。

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