心優しさと容赦のない攻め 野中広務氏、言動に責任を負う覚悟(墓碑銘)

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 その手腕から“影の総理”ともあだ名された野中広務氏が亡くなった。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、その生涯を振り返る。

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 野中広務氏の政界引退から14年余りが経つが、各紙は訃報を1面で伝え、評伝も添えて大きく扱った。首相未経験者では珍しいだろう。

 政治ジャーナリストで、共同通信元編集局長の後藤謙次氏は野中氏の番記者を務めた時期もあり縁が深い。

「心優しい武闘派でした。弱者へのまなざしと、おごった人間に対する容赦のない態度の両面を持っていました。情のない行動、上から押しつけるような行動に対して心の底から怒りをぶつけるのです。人が困っていたり、不幸な状態が起きると、一肌脱がねばと自分から率先して動く。野党に転落して一番つらい時の自民党を支えてきました」

 衆議院議員に転じたのは、1983年、57歳と遅い。

「訃報では軽くしか触れていませんが、28年に及んだ蜷川京都革新府政を終わらせた功績は大きい。町会議員から叩き上げ、政敵と戦う術は経験の蓄積が違う。対蜷川氏の手法が野党時代の自民党でも活かされた」(政治評論家の俵孝太郎氏)

 25年、京都府園部町(現・南丹市)生まれ。父親は農業を営んでいた。旧制府立園部中学を卒業後、大阪鉄道局に就職。応召して高知で敗戦を迎える。切腹をする直前、上官に止められた。

 鉄道局に復職するが、スピード出世が妬まれたり、世話をした後輩の裏切りに苦しむ。故郷で出直そうと51年に町会議員に立候補、初当選を果たした。58年には33歳で町長に。放漫財政を再建し、国に先駆けて小学校の教科書を無償にしている。

 陳情に上京するうちに、田中角栄に目をかけられる。67年から京都府議として蜷川知事に舌鋒鋭く斬り込み、78年、革新府政を終焉させた。副知事として自民党の新知事を支え、83年の衆議院補欠選挙で田中派から立ち当選。

 93年の細川連立政権誕生により自民党が野党に転落すると、情報を多角的に集め与党側の弱点を暴き、言葉巧みに揺さぶった。佐川急便グループからの借入金などを追及、細川首相を就任から1年経たずに退陣に追い込み、存在感を増す。

 権勢を誇る小沢一郎氏との対立もいとわなかった。

「野中さんは必要なら何でもやろうと、知恵を巡らせ自分もまめに動く信念の人。小沢さんは自分の理念先行で、途中で違うなと思ったらやめてしまう。決断はするが、野中さんのような根回しはできません。タイプが違いすぎました」(政治評論家の小林吉弥氏)

 自社さ連立政権で自治相兼国家公安委員長として初入閣。阪神大震災や地下鉄サリン事件への対応で村山首相を支え、信頼関係を築く。

「根本的な部分が全く違う相手でも合わせてしまう。あの人は話がわかるという情のような部分で結び付く姿勢に疑問を感じました」(政治評論家の屋山太郎氏)

 98年、小渕首相のもとでは官房長官。自自公連立政権の実現のために、悪魔とまで呼んでいた小沢氏に頭を下げ、徹底的に批判していた公明党とも組む。一貫した思想やイデオロギーより、何が今一番必要で効果的かで自在に動いた。変節漢と罵倒されても受け止めた。

 物事の潮目が見極められる政治家と言われながら、2001年に就任した小泉首相に対しては、弱者への視点に欠け、さらに政治を劇場化させたと批判を続けた。

 03年に政界引退。自身の資金集めのパーティーを開いたことは一度もなかった。

 重い障害を持つ人達の療養施設や授産施設の運営に携わったり、大学で教鞭も執った。90歳を超えた16年の暮れにも『時事放談』に出演したほど頭脳明晰。足の裏を突起のある金づちで叩く独自の健康法を40代から続け、牛肉が好物だった。

 昨年11月、会合の際に倒れ、1月26日、92歳で逝去。

「義理堅い人です。地下鉄サリン事件の発生日には毎年霞ケ関駅を訪ねて花を手向けていました。竹下さん、小渕さんの命日のお参りも続けていた」(後藤氏)

週刊新潮 2018年2月8日号掲載

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