“記録的不漁”に――夏のマドリード、鰻の稚魚を思う(作家・矢作俊彦)

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夏のマドリード、鰻の稚魚を思う

 1月14日付「産経新聞」によれば〈絶滅危惧種ニホンウナギの稚魚シラスウナギが今期は極度の不漁〉と報じられている。漁獲量は前期のわずか100分の1とのことである。なぜこのような悲劇的珍現象が引き起こされたのか、作家・矢作俊彦氏はこう考える。週刊新潮の不定期連載「豚は太るか死ぬしかない」からの一編である。

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 仕事半分、リスボンを訪れた帰り道、友人から闘牛の名人戦があると誘われてマドリードに寄ったら、バカンスまでまだ間があるのに人でいっぱいだ。

 食べるにも飲むにも、人だかりをかき分け、刃物のような日差しの下で我慢しなければならない。印欧語系のあらゆる言葉、それに中国語が飛び交って、そのくせ身なりは皆一様にTシャツ、短パン、サンダルの、これはもう世界中の人間が聖戦の銃火に追われて逃げてきたかといった按配だ。

 観光人気の旧市街を抜け出し、町外れの闘牛場に向かう道筋で食堂を探したのだが、ここも人であふれている。しかたない、とりあえず炎暑を逃れ、昔ながらのバルに飛び込んだものの、どうにも様子がおかしい。

 スペインのバルというのは日本の角打ちと似て、入ってすぐのカウンターに鉢に盛られたつまみが20、30と並んでいる。客はそれを肴に立ったまま飲む。

 生ハムにチョリソ、タコ、イカ、エビにカタクチイワシ、果てはコロッケにポテトサラダ─40年近く前、私が初めてこの国を訪れたとき、そんな小料理の鉢は氷の上に乗せられていた。

 次に行ってみると氷が寿司屋の冷蔵ケースに代わっていた。三度目に行くと冷蔵ケースは町中のバルで当たり前になっていた。後になって酔っ払いの日本人商社マンが酒場で良い仕事をしたのだと聞かされた。

 その冷蔵ケースの半分以上が空っぽなのだ。

「外食の産業化。それに尽きるよ。世界中みな同じさ」と、北アフリカを放浪すること10年、パリに定住して30年の友人が隣で言った。酒場で良い仕事をした張本人でもある。

「居酒屋のあてなんか、普通に美味ければよかったんだ。それがいつの間にか、みんなが特別に美味くないと嫌だと思い出した。あそこが美味い、ここが美味いって、雑誌にテレビ、何よりネットが何万何億のグルメ情報を垂れ流してる」

「それと、これと、どんな関係があるんだ?」

「話せば長い。短く言えば、普通に美味いものを求めてくる普通の客が減ったんだ。まず禁煙が全欧でやかましくなった。それで客が減った。こういう店は朝からやってる。朝飯を食べて煙草を喫って新聞を読む。煙草代は結構な稼ぎだった。それで潰れた店も少なくない。その上、普通の人が普通に酒を飲まなくなった。フランスでもワインの販売は頭打ちだ。健康であることが普通なんだ。おれたちみたいに昼前から寝るまで飲んでるやつは、今じゃ依存症って立派な病人さ」友人は店内をそっと見回した。「それで多くの店がシフトした。飲んでるのかスマホを弄ってるのか自分でも分からないような客。自撮り棒振り回しに来て金だけ置いていく観光客。つまり『特別』を探しに来る連中の方にさ。ますます普通の客は足が遠のく」

 そのとき、3杯目のカヴァがわれわれの前に現れ、店主の大声が遮った。

「羊のメンチカツを食えと言ってる。名物だそうだ」友人は通訳すると、返事を待たずふたつ頼んだ。

「品数20、30なんて店は、みんな大きな資本がついている。エル・ブジで皿洗いしてたって若造を人寄せにしたり、本物の三つ星シェフがレシピを書いてる店もある。そんなところの肴はエルメスのブティックみたいに清潔で、ピカピカのショーケースに行儀よく畏まってるんだ」彼は溜め息をついた。「こういう小さな、家業でやってる店は、品数を絞ってひとつふたつ『特別』をつくるしかない。足らないラインナップは業務用の冷凍食材や、ひどい店になると調理済みの冷凍食品で埋めることになる。近頃の普通に美味いものは工場でつくられてるんだ」

「冷蔵ケースがいらないわけだね」

 じきにメンチカツがきた。腎臓のつくねにパン生地を巻き付けて揚げたものだった。驚いたことにこれが格別、普通に美味かった。

 そう伝えると店主は歯を剥いて笑い、黒板を指差してまた何か勧めた。

「アンゴラスがあるって?!」友人が歓声をあげた。「鰻の稚魚のアヒージョだよ。嘘だろ! 11ユーロだって。いやに安いな」

 マッチ棒ほどのシラスウナギをオリーブオイルで煮たものだ。20年ほど前、最後にありついたときは、手のひらほどの大きさの陶鍋一杯が4、5千円していた。

 鰻の稚魚は日本の乱獲がたたって30年ほど前から激減し始めた。ことに中国が日本向けの養殖を始めると世界的に払底し始めた。鰻は今も卵からの完全養殖が不可能なものだから、業者はヨーロッパでも稚魚を買いあさったのだ。

 高値に過ぎて誰も食べない。来年はもう失くなっているかもしれない。最後に食べたときすでに、誰かが嘆いていた。

「たしかにアンゴラスだ」一つまみ食べて、友人が唸った。「でも匂いがない」

「食感が違うな」私は木の匙で一匹すくい上げ、目を近づけた。背が妙に黒く、頭も尾ひれもない。

「これ、スリミの一種じゃないか?」友人が呟いた。ヨーロッパ人はカニカマのことをそう呼ぶ。パリやローマでは、今やごく当たり前の食材だ。

 友人が店主に何やら尋ねた。店主は頷き、両手を差し上げて天を仰いだ。

「やっぱりスリミだ」友人は言った。「日本製じゃないだろうなあ。スペイン人からアンゴラスを奪って代用のスリミを売りつけるなんて、そんな不健康なこと、このおれでもしないよ」 

「それなら、牛丼屋で何の後悔もなく鰻丼食べる心の方がずっと不健康だ」

「えッ! 日本はそんなことになっているのか」

「回転寿司でも出してる」

「その、どこが問題なんだ?」

「鰻の稚魚はみんな同じだ。そんなに優劣があるわけじゃない。成魚に育てるプロセスで味に違いは出るだろうが、普通に年季の入った鰻屋がさばいて焼けば、工場でさばいて工場で焼いた冷凍ものよりずっと美味いはずじゃないか。なんで鰻が高騰してるかと言えば、真空パックのせいなんだ。80年代にあれができて、スーパーマーケットの店頭に並ぶようになった。安いし、お湯であっためるだけだ。世のお母様たちが飛びついた。商売になるというので、中国の商人も飛びついた。町から鰻を焼いて売る普通の鰻屋はどんどん消えて行った。バブルの終りごろには給食にまで鰻が登場するようになった。不健康じゃないか?」

「まあ、給食のおかずならスリミで充分だな」

「ファーストフードの鰻丼だってスリミで充分! しかしこの店のアンゴラスはスリミじゃだめなんだ」私は酔っていたのかもしれない。店主が「そうだ。そうだ」と、日本語で言ったような気がした。

「鰻は授業や仕事の合間にかっこむものじゃない。脂がのっていない真夏に、行列してまで食べるものでもない。特別にいい日に自分に奢るものなんだ。誰もがそうやって食べれば稚魚は増える。鰻は安くなる。ヨーロッパウナギにまで手を出して他人の食文化を奪わないで済む」

「それが健康な考えか?」

「健康じゃないかもしれないが、ごく普通だ」

 友人の喉が鳴った。気づくと陶鍋は空になっていた。

「もうひとつ頼む。それから酒も」

「ふたつずつ。さっきのメンチカツと生ハムも」私は言った。「豚は太るか死ぬしかないってやつだね」

「なんだ、それは? 太った豚より─ってやつか?」

「本のタイトルだ。何の本か覚えていない。読んでいないのかもしれない。ただ、このタイトルを知ったとき、ふいにブリューゲルの『怠け者の天国』に描かれた豚を思ったのはよく覚えている。ナイフを背負って疾走する丸焼きの豚だよ」

「人間と比べられるのは満足した豚だけなんだぜ。豚が太ったら、もう死ぬしかない」

 彼は私の下腹を見つめ、その目を自分の下腹に移し、溜め息をついた。「コチニードを食べに行こう。この国じゃ豚は太る暇がない。生まれて2週間で丸焼きにするんだ。無駄に太ったらハムにもならない」

矢作俊彦(やはぎ・としひこ)
1950(昭和25)年、神奈川県生れ。1972年「ミステリマガジン」に短編小説を発表、以後『マイク・ハマーへ伝言』『真夜中へもう一歩』で、注目を集める。一方、テレビ、ラジオ、映画など他分野でも活躍。大友克洋との合作コミック『気分はもう戦争』がミリオンセラーに。1998(平成10)年『あ・じゃ・ぱん!』でドゥ マゴ文学賞を受賞、2004年には、『ららら科學の子』で三島由紀夫賞を受賞。他の著書に『スズキさんの休息と遍歴』『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』『悲劇週間』『フィルムノワール/黒色影片』などがある。

週刊新潮 2017年8月17・24日夏季特大号掲載

長期不定期連載「豚は太るか死ぬしかない」より

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