校則も制服も生徒会もない… 日本一自由な学校「麻布中高」が名門なワケ

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

日本一自由な学校「麻布中高」の「自由」の授け方――おおたとしまさ(下)

 自身もその卒業生であるジャーナリストのおおたとしまさ氏が、制服も校則もない“日本一自由な学校”麻布中高の学びに迫る。同校の「誰かに定められた規律によらず、自ら定めた規律に従うときのみ、自由である」という理念が確立したのは「70年安保闘争」の時代。山内一郎校長代行を辞任させる「革命」に立ち会った当事者の一人である卒業生・A氏は、「結局は暴力を利用したんですね」と、現在も当時の葛藤から抜け出せずにいた。64年連続東大合格者トップテンに入り、しかし一度もナンバーワンにならない“麻布らしさ”とは。

 ***

 現在の平秀明校長は、A氏が卒業した翌年の73年に麻布に入学した。その年7月にも、授業料値上げに反対する生徒たちが校長室を占拠してバリケードを築くなど、紛争の余震は続いていた。平校長は学園紛争を次のように位置づける。

「創立者・江原素六はもと幕臣で、一度は新政府軍に追われ、命からがら逃げ延びた人物です。薩長藩閥政治に対抗する形で自由民権運動に参加し、麻布の校長でありながら長く帝国議会議員も務めました。その意味で、もともと麻布には体制側に与しない気骨や自主・自立の校風があったといえます。しかし、それをさらに現代化したのが、学園紛争という経験でした」

 その意味で、山内校長代行の出現は、新制麻布が江原の目指した理想に近づくための試練だったと言える。江原素六というロールモデルと、山内一郎という反面教師の両方があったことで、「麻布の自由」は絶妙なリアリティを保っているのだ。しかしそれは、紛争の中で学校を追いやられた生徒たちや、50年を経ても消えないA氏の心の傷という犠牲のうえに成り立っていることを、麻布関係者は忘れてはならないだろう。

 紛争終結後、山内校長代行派だった教員は大量に退職した。代わりに団塊世代の若い教員が、紛争後の新しい麻布の自由を形作っていった。その彼らが定年を迎え、この7〜8年の間に半数以上の教員が入れ替わった。麻布のDNAの継承が、平校長に課せられた大きな使命である。

「いまの若い先生たちはまじめで優秀な人が多い。一方で、昔のがちゃがちゃした麻布のことは知りません。かといって昔話をするのも違う。優秀な若者を育てる責任を果たすために何をすべきなのかを、若い先生たちとともに考えていきたいと思っています」(同)

自由に生きる術を授ける

 麻布のDNAとは何か。

「一言で言うならば、権威・権力に盲従しない、しなやかな反骨精神でしょうか。麻布生には世の中に流されるのでなく、流れを変える人になってほしい。信念に生きようとすると必ずぶつかり、多くの人はそこで妥協します。でも必要なときには最後まで信念を貫く強さをもってほしい。おかしいことにはおかしいと言える人間になってほしい」

 生徒たちの雰囲気について卒業生の親はこう言う。

「カオス。地元の小学校のクラスの中で、地頭はいいけれどちょっと変わっている子を全部集めた感じ。無論、息子もその1人」

 卒業したばかりの大学1年生を集めて座談会を開催したいと思ったが断られた。理由は、

「大学への進学という環境の変化の中にいながら、まだそこまで麻布というものを包括的に説明できない。慎重に言葉を紡ぎたい」

 その答えがまさに麻布らしいと感じられる。

 自由な校風ゆえ、不祥事も少なくない。そのつど全校集会を開いたり、保護者会を開いたり、時間をかけて対応する。当事者だけを処罰しておしまいということはない。「問題を起こしてからが教育」と平校長は常々言う。

 隠れた麻布名物に、長時間におよぶ職員会議がある。そこで話されていることの多くは、問題を抱えた生徒への対応方針だ。教員同士の教育観がぶつかり合うことも多い。

 自分の信念に忠実に、妥協せずに生きる。それを貫いてこそ自由な人生。麻布は単に「自由な学校」なのではない。生徒たちを信じ、挑戦させ、失敗させ、その中から学ばせ、「自由に生きる術を授ける学校」だ。

次ページ:ドロップアウトする生徒は…

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。