年間10億近く売り上げた「マハラジャ」 仕掛人・成田勝氏が語る

国内 社会 新潮45 2017年10月号掲載

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 バブルを象徴するスポットとして、あの伝説的なディスコを思い浮かべる読者は少なくなかろう。ドレスコードや黒服、お立ち台という言葉を全国区にした「マハラジャ」。牽引役だった成田勝氏が、ディスコ華やかなりし時代を振り返る。

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 僕が手掛けた「麻布十番マハラジャ」は1984年12月にオープンしました。当時の麻布十番は、まだ都営大江戸線も通っておらず、最寄りの六本木駅からも徒歩10分という陸の孤島のような状態でした。計画段階から「そんな場所に客が集まるわけがない」と周囲の猛反発に遭いましたね。結局、どうにか開店にはこぎつけたものの、今度は警察の許可が間に合わなかった。オープン当日はヒヤヒヤでしたよ。もし警察から指導が入れば店を閉めなければならない。僕は寒空の下、店の前に立ってパトカーが来やしないか見張っていました。すると、もの凄い数のタクシーが押し寄せて来て、店の前の道路を埋め尽くしたんです。これには驚きました。車のヘッドライトが、まるでスポットライトのように「MAHARAJA」という看板を照らしている。そして、結婚式の二次会に出席するような、着飾った男女が車から降りて続々と店に吸い込まれていく。それを目の当たりにして「あっ、これは凄いことになるな」と直感しました。

 僕が歌手を目指して上京したのは1977年のこと。ちょうど映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットして、日本中の繁華街が第1次ディスコブームに沸いていた頃です。当時のアルバイト先だった新宿のディスコ「クレイジーホース」はいつも開店と同時に超満員。そのため、2時間制にしてお客さんを入れ替える。ひと晩で3~4回転させていたから儲けも凄かったと思います。

 まもなくして、僕は先日お亡くなりになった平尾昌晃先生の教室に通って歌の勉強を始めました。後に平尾先生から紹介してもらったのが、マハラジャのオーナーだったノヴァ・インターナショナル代表の菅野諒さんです。

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