自分たちが遊びたい店を作ってきた――松井雅美氏が振り返る「バブルの遊び場」

社会新潮45 2017年10月号掲載

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 飲食業界にカフェバーという業態を誕生させ、湾岸の倉庫街の一角を開発してウォーターフロントブームを作り出す。手がけた店がオープンすると、周辺の地代が上がったことから、「地代上げ屋」とも呼ばれた。バブル期を象徴する空間プロデューサー、松井雅美氏。その彼が振り返る遊び場のバブル時代とは――。

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 もともとインテリアデザイナーから出発して「空間プロデューサー」なんて呼ばれましたが、その言葉ではちょっと足りないかな。店を作るにあたって、内装はもちろん、食器もテーブルもメニューだって決めて、従業員のことや経営的な側面も考える。だから「商業空間プロデューサー」というのが一番しっくりきます。

 カフェバーやウォーターフロントで、どうも私はバブルのイメージが強いみたいですが、私や仲間たちはバブルの前からバブルみたいなものだったんですよ。

 カフェバー第一号と言われた西麻布の「レッドシューズ」は1981年のオープン。その前には六本木の「ナバーナ」「ネペンタ」「メーキャップ」、大阪では「サンバクラブ」「アマゾンクラブ」といったディスコを作っていて、そのころから仕事はたくさんあったんですね。当時は主にディスコで、もう1970年代後半から忙しかった。

 それが1982年に新宿のディスコで遊んでいた女の子が殺される事件が起きて、取り締まりが厳しくなる。80年代もディスコブームは続くんですが、私はバーやレストランなんかを多く手掛けるようになっていて、そこがバブルの時代に重なるんですね。

「レッドシューズ」の前、酒を飲ませる店と言えば、ボトルキープが主流で、パブなどが流行っていました。ショット売りだと店と客の間に距離ができるんですが、私はショット売りにこだわった。常連が来るコミュニティの店もいい。でも私たちが作りたかったのは、ロックがかかっていて「隣席の人と知り合える店」、つまりは女の子をナンパできる店ですよ。

 そのために、例えば「レッドシューズ」は、ハイテーブルにした。そうすると、座っている人と立っている人が自然に会話できるでしょう。また「メーキャップ」では、席の後ろのトイレに行く動線をちょっと高くした。気になった女の子がトイレに立った際に、目立つからすぐ追いかけてトイレで待ち合わせができる。

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