自分たちが遊びたい店を作ってきた――松井雅美氏が振り返る「バブルの遊び場」

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お金がシャワーのごとく…

 私たちは中学時代から夜遊びしてきて、言ってみれば不良ですよ。ファッションや音楽が好きで、車の免許を取ってすぐカーレースを主催、レーシングカーの輸入をしたりした。店作りでは、自分たちが遊びたい場所を作ろうというのがベーシックなところにありました。

「レッドシューズ」は平凡パンチのグラビア記事を仕掛けてスタートさせたんですが、最初あんまりお客さんが来なかったですね。それで知り合いのミュージシャンやモデルを呼んで、毎日深夜にパーティやアフターパーティやったりしていたら、2、3カ月後くらいから大盛況となった。一緒に作ったオーナーの松山勲さんが入口に「Cafe Bar」というネオンを出して、それが広まっていった。

 ウォーターフロントの芝浦でライブハウス「インクスティック芝浦ファクトリー」とレストラン「タンゴ」を作ったのは、バブルさなかの1986年です。9月に場所を見に行って12月にオープンというタイトなスケジュールでしたね。

「レッドシューズ」も「六本木から600メートルショック」と言われた不便な場所でしたが、芝浦も目の前が運河で、荷揚げした果物のための倉庫。何でそんなところにと何度も聞かれましたが、店には差別化が必要なんですよ。利便性とは別の要素が重要で、遠くの立地は悪いことじゃない。インクスティックのオープニングに5000人が来てしまい、大変な交通渋滞が起きました。

 この頃は、バー「パラディッソ」やレストラン「ル・シノワ」「シン」「ザパタ」などを作っていて、内装やテーブルウエアの仕入れでしょっちゅうヨーロッパに行っていた。アパレルのアーストンボラージュのショーの演出もやっていたから、パリやニューヨークに行ったし、世界中を飛び回っていた感じですね。

 でもやっぱりバブルの文化と言えば、西武の堤清二さんじゃないかと思います。あの時代に商業のソフト、デザイン、文化をあれほど作り変えた人はいない。浅葉克己さんや糸井重里さんなど、才能のある人はみんな西武のまわりにいた。

 西武の仕事は、ams西武とか渋谷ウェーブなどもありますが、最初は1985年に渋谷の道玄坂にできた渋谷プライムの総合プロデュース。入口に黒人のドアマンを置き、トイレにはタオルを渡す女の子を配置しました。堤さんが「ニューヨークのフルトンマーケット」と、キーワードを言うと、それを受けてみんなが動きだす、そんな感じでしたね。デザインがわかる、感性がわかる、80年代の文化、芸術、衣食は、堤さんなしには語れない。

 いま振り返ると、バブルというのは、私たちが遊びたい店を作っているときに、他からお金がシャワーのごとく降ってきたという時代なんじゃないかな。もともと私らは成長期にあって、それはバブルとは違う発生源があった。不良というベーシックな部分があってやってきたことがバブルによってどんどん加速していった、そんな感じですね。

 あの頃、資金貸すから不動産投資しないかという話もあったけど、私はしなかった。何か違うと思っていた。やはり私は「現場商売」をやりたいんですね。いまもインターネットやコンピュータで人がいらない社会になってますが、それじゃつまらないんじゃないか。人と人とが向き合う場所が好きですね。

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 現在発売中の「新潮45」10月号では「バブル」を特集。「私が会った『闇の紳士』たち」(一橋文哉)、「DCブランド興亡記」(上阪徹)といったラインナップで、あの“狂乱”の時代に迫る。

松井雅美(まついまさみ) (株)アクス代表取締役・インテリアデザイナー
1950年東京生まれ。暁星学園、文化学院、桑沢デザイン研究所に学ぶ。10代で軽井沢にスナックを作り、カーレース、ファッションの仕事を経て、店舗開発に進む。

新潮45 2017年10月号掲載

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