「タイガース」4年で解散の真相を元メンバーが語る

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金銭的な問題

 加橋が脱退した理由についてはこう語る。

「かつみから『独立しようよ』と言われたメンバーもいます。でも、僕自身は聞いた覚えがないんですよね。そんな大事な話を記憶してないということは、僕には御声が掛からなかったということでしょう。僕が思うに、かつみは事務所と金銭的な問題で意見の相違があったんだと思います」

 この流れに追随したのが瞳であった。

「瞳は学校に入り直したいと思っていた。それもあって、かつみが辞めると、直ぐに瞳も事務所に自分も抜けたいと相談したんです。後から知った話ですが、当時、僕らの給料は、他のGSの人たちよりも全然安かったんです。人気絶頂の頃で月50万~60万円。タクシー料金が1メーター、100円くらいの時代です。一般のサラリーマンに比べれば、良い給料でしょう。ただ、他のGSの中には僕らの4~5倍もらっていた人もいたそうです」

 事務所にすれば、瞳にまで辞められてはグループ存亡の危機である。そこで相当引き留めたようで、

「瞳に『お金はあるのか』と聞くと、彼は『ない』と答えた。事務所は『だったら後、1年頑張ろう』と説得したんです。僕や他のメンバーも1人ずつ呼ばれて、今後の進みたい道について面談が行われました。これが44年の夏頃のことかな」

 つまり、この頃、タイガース解散へのカウントダウンが始まったのだ。

「メンバー全員で解散について膝を突き合わせて相談することはなかったと思う。ナベプロもタイガースが解散するからといって、人気のあった沢田だけ残して後は野に放つということはせず、他のメンバーも救済しようとしてくれた。僕も(タイガース解散後)バンドを作らせてもらったしね」

 それから解散する46年1月までは、チームワークも徐々に崩れていった。

「解散が見え始めると、それぞれ、次のバンドの準備に取り掛かっていたからね。タイガースに対するモチベーションも下がる一方だった。もちろん、演奏はしっかりやったが、表情とかトークで、プロとしてはダメだろう……、と思われる雰囲気を出しちゃう。こうなると、メンバー間の確執も出て来る。今思えば、若気の至りでしょうけど、解散までの1年半くらいは、けっこう辛かったですよ」

 逆に一番楽しかったのは、意外にもプロとしてデビューする前。タイガースではなく、「ファニーズ」の名で活動していた頃だという。

「大阪のジャズ喫茶『ナンバ一番』でやっていた頃が、自由に好きなことをやれていたね。あの頃はゲイバーで演奏したこともある。ホステスが僕らの身体を触ってくるんだよね。僕はギターでガードしたけど、沢田はマイク1本だから逃げられない。そんなことも今思えば楽しい思い出です」

 タイガースが4年で解散したことに関しては、

「結果論ですが、大正解だったと思う。GSは急激にブームを作って、急激に廃れていったわけです。その間、タイガースは、どん底まで人気が落ちる前に其々(それぞれ)やりたい道へと歩き始めた。だから、皆に明るい未来があったんだと思います」

 とはいえ、瞳だけは音楽の世界に別れを告げ、学業の道に進んだ。

「彼とは、解散後会うこともありませんでした。2000年代に入って、詞を岸部と沢田、曲が僕で、瞳に向けて『ロング・グッバイ』という歌を書いたんだ。それがきっかけで、37年ぶりに渋谷の居酒屋で瞳と再会できたんです。沢田も岸部もいたけど、僕は瞳の顔を見るなり号泣しちゃった。その時、ザ・タイガースは兄弟みたいなもんだと思ったね。僕は、今も昔の仲間と演奏するのは楽しい。アマチュア時代に戻って小さいジャズ喫茶で演奏してみたい。名前もタイガースではなく、ファニーズとしてね」

 今も忘れられないのは、タイガースの原点なのだ。

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「芸能史に刻まれた『衝撃ニュース』の主役」より

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