いい子に育てると犯罪者になります──豊田議員のパワハラ騒動の真の問題とは

社会2017年6月28日掲載

「週刊新潮」の報道で明らかになった豊田真由子議員のパワハラ問題が大きな話題となったのは、そこで描かれた彼女のキレ方が、とても尋常なものではなかったからだろう。

 こうした尋常ではないキレ方や罵り方が揶揄や非難の対象になるのは仕方ない面があるが、一歩引いてその背景を考えると、しばしば別の問題が潜んでいるものである。現状、豊田議員の成育過程については確たる情報は出てきていないが、一般的にこうしたケースは虐待家庭、ないしはそれに近い家庭環境の存在を示唆している。

相手への罵りが「内面の吐露」に

 ミスした秘書にキレて、「このハゲ!」とか「違うだろ!」と相手を罵ったり、暴力を振るったりというのはまだ分かる(それでも相当なものだが)。気になるのは、「私の心を傷つけるな!」「私が受けてる痛みがどれくらいあるか、お前分かるか!」「お前はどれだけ私の心を叩いている!」というセリフだ。単なるミスした相手を叱責する言葉にしては、あまりにも自分の心を吐露した内容になっていないだろうか。

 しかも、こうしたセリフを発した後、彼女は一人語りのミュージカル調で呪詛の言葉を垂れ流している。つまるところ、その言葉は相手に聞かれることすら期待していないのだ。この部分、週刊新潮の記事では戯画的に描写されているが、『反省させると犯罪者になります』『凶悪犯罪者こそ更生します』などの著書がある臨床教育学博士の故・岡本茂樹立命館大学教授(1958~2015)の見解に従えば、これは本人の「本当の心の叫び」だった可能性がある。

『凶悪犯罪者こそ更生します』の中で、岡本氏は無期懲役囚・美達大和のケースを分析している。美達大和は2人を殺した殺人犯で、現在はLB級刑務所(犯罪傾向が進み、服役期間の長い者が収監される刑務所)にいるが、2009年に『人を殺すとはどういうことか』(新潮社)という本を書き、自身の半生と人を殺すまでの過程、その後の「反省」などを記した。

 この美達の父親は極端な人だった。「一番じゃなければすべてクズだ」「男らしくあれ」「俺の子供なら喧嘩が一番で当然だ」「自分の信念に忠実に」「嘘をつくな」などと、子供には到底守り切れない無理な規範を暴力とともに押し付けていた。
父親の忠実な僕だった美達は、この父親の期待によく応え、小学校時代は「神童」と呼ばれるほどだったが、小学生の最後になって「もう無理」と、自殺未遂を起こしてしまった。

 しかし、辛うじて命をつないだ美達は、その後、父親の価値観を完全に内面化し、一時は金儲けで大成功するものの、最後は「自分の信念に忠実に従って」人を殺してしまうのである。

 その美達は『人を殺すとはどういうことか』の中で「反省と贖罪」を表明しているものの、岡本氏は「父親によって刷り込まれた価値観から抜け出せていない美達は、本当の意味で反省していないし、世間に出たらまた犯罪を起こす可能性がある」と断言している。

■エリートコースという「檻」

 桜蔭高校→東大→国家公務員→ハーバード大学院→国会議員という豊田議員の歩んだエリートコースは、一見、美達のそれとはまったく異なっているように見える。しかし、最後に至った結末を、硬直した価値観を押し付けられた結果だと捉えれば、実は両者は似ているのではないか。もし彼女が「それ以外の価値観を認められない家庭環境」で育っていたとしたら、相当に息苦しかったはずである(園遊会に連れていった母親との関係も気になる)。

 彼女はそれぞれの段階でさぞや努力をしたに違いない。しかし、「それが当然」と考えられているような環境の中で、十分に自分を認めて貰えていなければ、鬱屈がオリのように溜まりつづけていった可能性がある。その鬱屈をバネに、エリートコース上の「前への逃亡」をずっと続けてきたのかも知れない。そう考えれば、「私の心を傷つけるな!」「私が受けてる痛みがどれくらいあるか、お前分かるか!」というセリフも腑に落ちるのである。

 おそらく、議員辞職は避けられまい。しかし、議員辞職してメディアで反省を表明し、世間が問題を忘れてしまった時、別の問題が起こる可能性は残る。彼女には2人の子供がいる。彼女が世間向けの表面的な反省しかせず、自分の来し方を振り返って「自分の苦しみの正体」に向き合わない限り、また同じことを繰り返す可能性が高い。実際、永田町で「ピンクモンスター」と呼ばれていながら、今回の騒動を起こさずにはいられなかったくらいなのだ。

 岡本氏によると、「心からの反省」とは生易しいものではない。「心からの反省」には、「自分が罪を犯してしまった本当の理由」の探索が必要になる。それには、人生を振り返って、自分の刷り込まれた価値観、自分自身の受けた苦しみやしんどさ、傷ついた自分の姿の探索などが必要になる。その作業は時に、自分をそれまで導いてきた価値観を反転させるような苦しいものとなる。その苦しい作業を経て、自分自身の真の姿の受け入れがあって初めて、他者の痛みに想像が及ぶのだ。被害者への贖罪の気持ちと反省がやってくるのは、最後の最後である。

 犯罪を犯した人に本当に反省を求めるなら、すぐに反省を求めてはいけない。犯罪者に即座の反省を求めると、彼らは「私が悪かったのです。反省しています」と世間向けの偽善しか語らなくなる。それは本当の問題を隠蔽し、事態をさらに悪化させることにつながる。

 2015年に脳腫瘍で亡くなった岡本氏が最後に書いた本のタイトルは、奇しくも『いい子に育てると犯罪者になります』だった。この本のタイトルがこんなにぴったりの事例が出てくるとは、岡本氏も思わなかっただろう。

デイリー新潮編集部